見出し画像

日本の労働組合における「ストライキ」

2023年8月31日のそごう・西武労働組合のストライキは、多くの働く人の注目を集めた出来事だった。労働組合の活動を支援しているj.unionは、今回の取り組みから改めて、日本の労働組合における「ストライキ」について考えてみた。


誤解されがちだが、「ストライキ」は、労働組合の要求を飲まない企業側に対する「脅迫行為」ではない。労働組合側の要求を企業が100%飲むまで引き下がらない戦争状態を宣言するものでもない。

「ストライキ」とは働く人々の正当な権利として認められた範囲で行う「抗議」だ。それは、話し合いに応じようとしない経営者を、話し合いのテーブルに着くように求めるものである。

近年の日本において「ストライキ」が減ってきているのは、労働組合の弱体化でも、「ストライキ」自体の意義が低下しているからでもない。これまでの歴史の中で「ストライキ」が企業の存続発展にメリットよりも大きなデメリットをもたらしかねないことを労使がそれぞれの立場から学び、「ストライキ」が起きてしまうような事態になることを極力避けるために、「対話」を重視する労使の関係性を成熟させてきた結果だ。

それは労使で互いの持っている情報を隠さずに日常的に共有し、問題が起きている/起きそうなことはその責任や解決を相手に押し付けて追い詰めるようなことはせず、話し合いによる歩み寄りの中で解決を見出していくという、極めて理性的な関係性だ。労働組合は、経営者が従業員を気にかけ、理性的に「対話」に応じてくれる限り、「ストライキ」を必要としない。
 

「ストライキ」は対話を拒絶する非理性的経営者のもとで起きる


「ストライキ」が起きてしまう背後には、「従業員は給料を貰っているのだから経営者の命令には黙って服従すべきだ」と信じて疑わなかったり、「経営的判断の理由について従業員は知る必要がないし説明を求める権利なんてない」と本気で思っているような非理性的な経営者の対応がある。

「ストライキ」が働く人々の正当な権利として認められているのは、せめて「対話」を継続するための一定の効果を発揮できる手段を手にすべきだと考えられているからだ。

「ストライキ」をする労働組合は理性的に行動する


労働組合が「ストライキ」を決行するならば、それが権利の正当な理由による行使であって、濫用ではないことを証明する必要がある。

力を利用して相手を屈服させ、自分たちの考えだけを押し通そうというのは、対話ではなく脅迫行為であり、犯罪だ。そのような行為はよほどの緊急事態でもない限り、誰であっても決して許されるものではない。それゆえ、労働組合の「ストライキ」にはルールがある(この1点でもストライキが「日常の中で認められる行為=対話の延長」であって、経営側に対して暴動を起こすような「非常事態」ではないことがわかる)。

例えば「ストライキ」は、それを実施するかどうか組合員の間で無記名式投票による過半数以上の賛同を得なければならないと法律で決められている。多くの組合では、より多くの組合員の賛同を得てからでなければ「ストライキ」は実施すべきではないと、自らの規約に定めていることも多い。

経営者側と事前に協議を尽くそうとした、ということもルールの一つだ。経営側が自分たちの要求を拒否した、というだけの理由では「ストライキ」の正当性は認められない。どれだけ対話の道を探ろうとも、経営側の不誠実な姿勢が崩れず話し合いができない、となって初めて「ストライキ」の正当性が認められる。

いざ「ストライキ」を実行した後にもルールがある。たとえば破壊行為を伴ったり、交渉時に要求していた内容から変わったり外れる目的が追加されたり、個々人で勝手にストライキを始めるなどの勝手な行動をとる組合員がいるような無法状態に陥っていたり、その他にも法律で禁じられていることを伴うような「ストライキ」は、不当なものとして効力を認められなくなってしまう。

「ストライキ」に意義があるかどうかは、周囲の第三者の行動も影響する


実際に「ストライキ」をした/検討をした労働組合の役員から話を聞くと、この現代のご時世に信じられないような話ばかりで吃驚する。

プレスリリース上では従業員に誠意をもった対応をしているように見える経営者であっても、その裏で労働組合との対話は皆無で従業員の都合おかまいなしの施策を勝手に進めたり、反対者が出たときに法律の抜け道をつくような強硬策に出るといった、およそ働く人を見下し、自らの都合だけを優先し、決定事項に黙って従うことを強要するための権力闘争に明け暮れている、といったことは当たり前に耳にする(そうした「汚れ仕事」専門の「経営者という職業」も確立されてきている)。

もちろん、経営者も人であるから、常にそのような態度であるわけではない。なにより、市場経済原理に流されるままに生きざるを得ない点では経営者も働く人も似たようなもので、意図的に「働く人々」を困らせてやろうと思っている経営者はまずいない。
幸いにも、日本では労働組合が組織されている企業の経営者のほとんどが理性的であり、私たち働く人の多くは「ストライキ」の当事者になることになることは稀だ。それでも経営者ガチャの不幸な結果を惹いてしまう人々は一定の割合で発生する。

忘れてはならないのは、正しい手順を踏んだ「ストライキ」が起きるとき、そこに確かな不正義の告発が起きているということだ。安全な外野から「いまどきストライキなんかしても意味ないよ」などとクールぶって偉そうに言うのは想像力の欠如でしかない。隣家の火事に興味も示さず、困り果て助けを必要とする仲間を無視し、自分だけが安穏と布団の中で寝て過ごすのと同じだ。仮に救助のために自分にできることが無かったとしても、焼きだされた人に寄り添うことはできるし、なぜ火事が起きたのかを知って自分の教訓とすることもできる。当事者ではない私たちにも行動の責任がある。

そごう・西武労働組合の「ストライキ」の意義


2023年8月31日、そごう・西武労働組合で「ストライキ」が行われた。そして翌日、相も変わらず説明もなしに、労働組合の要求がすべて無視されたまま、そごう・西武はセブン&アイ・ホールディングスによって強行売却された。

このことについて、「ストライキ」などしても結局交渉には何の影響もなく無駄だった、とか、労働組合は存在意義を失った、と安易に結論をして片づけてはならない。

今回の「ストライキ」から見えてきたことは多い。現代の経営者の仕事は、事業の目的や社会的意義を考えたり、組織運営をどうにかして売り上げを伸ばすことではなくなってきているようだ。現代の経営者にとって、働く人々は職をいつ失っても困らないよう日頃から備えるべきで、それを怠ったり、目の前の職や仕事に固執する者は堕落した存在として見捨てられても仕方ないと考えられている。経営者自身の利益と自社の利益とを同一視し、市場原理に従ってさえいれば自らの判断が絶対化される特権を手にしはじめている。こうした現代の経営は、企業内労働組合を無視してコトを進めていく抜け道を見つければ、厚顔無恥にも躊躇なくそれを選択して進むことが明かされた。

一方で、街ゆく多くの人々はそごう・西武労働組合の「抗議」に賛意を示した。経営陣が説明も対話もなしに働く人々の運命を、数字の計算によって決めることは「何かがおかしい」と、感じた人が多かった。

経営に合理性(reasonableness)があるのならば、多くの人々に自らの行動を説明できてしかるべきなのに、それをしないだけでなく対話の場にすら出てこないのは、やはり何かがおかしい。

現代の経営者は、経営者の間でだけ通用する理論の世界に生きており、それは間違いなく働く私たちの利害と対立しはじめている。住む世界が違うのだ、と割り切って受け入れることは簡単だ。しかし、そごう・西武労働組合はその違いを乗り越えようと、愚直に勇気をもって「対話」による解決を求める「ストライキ」を起こしたのだ。
 

この「ストライキ」から見えた労働組合の課題


今回の「ストライキ」は日本の労働組合の課題を改めて浮き彫りにした。

自分たちの雇用と賃金の向上のために、自分たちの所属する企業の存続と発展を目指し、自分たちの企業の問題解決に奮闘していた日本の労働組合は、確かに日本社会の発展の原動力の一つとなったに違いない。市場原理の中で、売上を求め、生き残りをかけてもがく企業経営者の行動は、当然のものであってそれ自体で非難されるべきではない。

しかし、労働組合が、自分たちの雇用と賃金の向上を目指すことだけを考え、企業の存続と発展のための行為であるならばどんなものでも受け入れるような組織となってしまえば、それぞれの労働組合の活動は互いに利害が対立するものとなっていく。

自分たちの仲間が経営者の横暴に苦しみ、勇気をもって「ストライキ」を決行したとき、連帯を示す代わりに、「君たちの抗議は私たちの賃金と雇用に影響がないから支持することはできない」と言い切って見捨てる組織が出てくることになる。

労働組合の活動は、人々の間に分断と孤立を生み出すものではなく、人々の連帯を深め、「対話」によって互いの違いを乗り越えていくためのものであるはずだ。

自分たちの組織の売上や賃金を高めたかどうかではなく、多くの人々――願わくば社会全体――の利益を促進したかどうかによって正しさを評価されるべきものであるはずだ。

日本の労働組合は、今回の「ストライキ」を契機に、企業別に組織されることによる労働組合同士の利害の不一致をいかに乗り越え、働く人々が仲間として安心できる社会を築いていくための議論を開始すべきだ。

「ストライキなんて古臭くて時代遅れだ」で今回のケースを片付けてはならない。常識に囚われることなく、働く仲間を見捨てない、新たな形での「連帯」を模索し、助け合いを拡げていくことこそが労働組合の存在意義ではないだろうか。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!