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社会の混乱が誕生させ、社会の安定が影響力を減滅させたマルクス主義

このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。


産業革命は社会に良いことばかりをもたらしたわけではない。もちろん産業の発展によってそれぞれの国の労働者に仕事を与え、生活を豊かにし、新たな国民経済の礎を築いた。今日の私たちの社会のスタートであった。
しかし、その一方で、産業革命はさまざまな弊害を国民生活にもたらした。この場合の国民生活とは、産業に働く労働者への影響に始まり、国の礎である国民全体への影響、そして労働者を雇用する経営者の意識と行動などをいうが、今では想像もできないほどの惨憺たる社会状況を作り出していた。

前号でも触れたように、その実相は想像を超えている。

【産業革命は西欧社会の富を著しく増大させ、衛生、健康、快適さといったものの水準を根本的に引き上げた。確かに初期の段階では、新しい工業都市へ工場労働者が集中し、既存の都市が急激に膨張したので、従来の制度では対処できない社会問題が作り出された。このことは、社会主義革命によって問題が解決されない限り、豊かさの中でプロレタリア大衆はますます貧しくなっていくという、カール・マルクス(1818年~83年)の見解の根拠になった。マルクスが彼の主要な思想を初めて明確に系統立てた1848年には、こうした見解はきわめてもっともらしく思われた。実際、1789年にパリの暴徒がバスティーユを襲撃し、フランス大革命の幕が切っておろされた時以来、都市の貧困層に根拠をおいた革命的暴力は、ヨーロッパの政治における有力な力となっていたのである。
だが1848年から49年にかけて、これと性格の似た一連の群集蜂起が失敗に終わった。それから間もなく、様々な社会的装置が考え出され、初期の産業社会にあふれていた苦痛や醜悪さを抑制したり、改善したりするようになった。例えば、都市警察のような、近代国家の公共秩序のための基本的制度が作られたのも、1840年代以降のことであった。これに劣らず重要なものとして、下水システム、ゴミ収集、公園、病院、健康保険や災害保険などの制度、公立学校、労働組合、孤児院、養護施設、刑務所、その他多種多様な人道的、慈善的な事業があった。どれも貧乏人や病人、不幸な人間の苦しみを軽減することを目的としたものだった。十九世紀後半には、今あげた例をはじめ、様々な施設や制度が次々に生まれ、都市の膨張によってそれらが必要とされてくるのとほぼ足並みをそろえて活動を開始していった。その結果、人々の革命的感情はきわめて高度に工業化した国々では後退していき、広がってゆく工業化の最前線にあたる地域にだけ残った。そうした地域の中でも、ロシアの場合は特に著しかった。この国のツァーの下での官僚機構は、産業化社会の要求に対して反応するのがいかにも遅く、また冷淡だったのである。】

ウィルアム・H・マクニール著「世界史」〈下〉

さらに同書は次の点を強調する。

【産業革命の第二の基本的特徴として挙げられるのは、人口の加速度的な増加である。例えば、ヨーロッパにおいては、1800年における全大陸の総人口はおよそ1億8700万人であった。1900年には、総人口はおよそ4億に達している。その間の一世紀の間に、ほぼ6000万人が海外に移住し、数は不明ながら相当の人数がウラル山脈を越えてヨーロッパ・ロシアからシベリアや中央アジアへと移動しているのである。こうした人口の急速な増大をもたらした主な要因は、死亡率の急激な低下であったが、その原因となったのは、一つには医学や公衆衛生の改善であり、一つには食糧供給の拡大であり、さらにまた人々の物質的な生活面が総じて改善されたことであった。】


以上の指摘は時代の進歩、歴史の進んで行く方向の原理みたいなものを示唆している。その中で最も重要なことは、社会が混乱し、国民が貧しく困窮していると、その原因は社会システムのせいとするマルクス主義のような革命思想が蔓延するようになることだ。
マルクスが活躍する時代も産業革命によってスタートする。それは国民生活の困窮や混乱が背景にあって生まれたのである。以後、歴史を見れば、マルクス主義が影響力を発揮するのが社会の混乱期であったことが証明している。社会が安定期にはその影響力を著しく失うのである。戦後の日本を見ても、敗戦後の混乱期に栄えたものの、国民生活が安定している時期には勢力は落ち込んでいくのである。
その原理を今の日本にあてはめてみると、まったくその通りに動いていることがわかる。例えば、近年でいえば終戦直後の貧しく混乱した社会では、マルクス主義は多くの支持を得てそれらを掲げる政党が勢力を伸ばした。やがて日本経済が高度成長を成し遂げ国民生活が豊かになると、その影響力は急速に失われる。
しかし、そんな中でも、業績の悪化から「派遣切り」と称される派遣労働者の解雇が増えると、その影響力は息を吹き返す。こうして労働者の困窮や社会の混乱が始まればマルクス主義の影響力は力を増していく歴史は繰り返されていく。


近代資本主義の誕生にまつわる苦難の時期は日本を例外とはしない。女工哀史と並んで労働環境の悲惨さの代表に挙げられるのが「高島炭鉱」、通称「軍艦島」の労働争議である。

【長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡高島町(現、長崎市高島町)にあった高島炭鉱では、明治期に17件の争議が発生している。一連の争議はほとんどみな暴動化したが、ことに1883年(明治16)9月のものは、7人の即死者が出るほど激しかった。高島炭鉱は、官営時代には囚人労働力を使用、1881年に岩崎弥太郎(やたろう)が買収してからは、「納屋(なや)制度(飯場(はんば)制度)」が広がって、人身的な隷属のもとで鉱夫に劣悪な労働条件を強いていた。これが一連の暴動の根本原因で、三宅雪嶺(みやけせつれい)が発刊した雑誌『日本人』が、88年に高島炭鉱の坑夫虐待問題でキャンペーンを張ると、それはたちまち世間の注目を浴び、一大社会問題となった。ことの重大さに政府も警保局長を現地に派遣して実情を調査させた。その結果、鉱夫への暴力的拘禁の事実が明らかになり、以後一定の是正措置が図られた。】

日本大百科全書

【明治のはじめに起こった日本初の労働争議事件。高島炭鉱の労働力は囚人などの下層所得者を集めて働かせ、しかもその実態はタコ部屋などの封建的・非人道的な制度に支配され、一日12時間労働という過酷な労働条件、低賃金、重労働にもかかわらずほとんど手作業、「死んでも代わりはすぐ見つかる」といった認識がまかり通るなど問題だらけであった。
小頭・人繰りなどが採掘場を監督した。少しでも怠ける者がいると彼らは棍棒で殴った。彼らにさからう者は、見せしめに両手を後ろへ縛り、梁に逆さ吊りにして殴った。また、脱島しようとした者は私刑にされた。郷里に手紙を出すことすら許されなかった。
採掘場は坑内4-8kmのところにあり、狭い通路に身をかがめ、つるはし、地雷、火棒などで採掘し、これを竹かごに盛り、重さ56-75kgのものを、這うようにして担ぎ鉄道まで運んだ。
1884年夏、この島にコレラが流行ったときは3000いた坑夫の約半数が死んだ。罹患者は海岸で焼却処分されたという。求人は他社を装って行い、汽船で拉致した。
そしてついに100人以上が参加した暴動になった。】

ウィキペディア


こうした悲惨な歴史を持っていながら、今や観光の名所としか宣伝されない軍艦島。私たち労働組合に関係する者は、日本初の労働争議が発生した場所として改めて認識を新たにすると共に、それだけにとどまらず、労働組合は常に、社会問題と強いかかわりを持っていることを自覚していかなければならない。