見出し画像

【No.17】シリーズ連載のおわりにあたって:個別労使交渉・協議力(発言力)こそがホワイトカラー労働組合の核心

j.union社の“WEBメディア―勉強note「働く×マナビバ」”開設にあたり、これから趣を新たにして、私の遺書として上梓した西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社の内容紹介を兼ねて、シリーズにて「個別的労使関係での分権的組合活動の理論と手法」を綴っていきます。
※前回の記事はこちらから


これまで16回シリーズで綴ってきた「個別的労使関係での分権的組合活動の理論と手法」は、学ぶに遅すぎることはないだろうと、65歳から始めた大学院(修士課程は法政大学大学院連帯社会インスティテュート、博士課程は國學院大學大学院経済学研究所)での5年間の調査研究の集大成として上梓した西尾(2023)の根幹をなす論点です。

 

私は、かつて平成版「労働組合の意義と機能」として、労働組合活動の目的を次の3点

  1. 自分たちの所属する会社を「良い会社」にする。

  2. 労働者の集団からプロフェッショナルの集団をめざす。

  3. 集団及び個別の労使関係に発生する問題を、マネジメント力で労使対等を実現し、問題解決する。

―にあることを主張していました。

その労働組合の目的達成のために、労働組合として発揮すべき機能として、次の4点を挙げていました。

⑴人材育成機能
⑵コミュニケーション機能
⑶メンタルヘルス機能
⑷良質の労働力(プロフェッショナル)つくり機能

 しかし、平成版「労働組合の意義と機能」には、次のような限界があった、と私は反省しています。

第1点目が、「組織率の低下」と「組合員と組合離れ」に歯止めをかけられなかった。非正規労働者の組織化の意義や価値を十分に提示できていなかった、ことです。
第2点目が、衰退する春闘にかわるムーブメントを起こせなかった。成果主義に対抗する組合活動として、個別春闘のための「被考課者訓練」を提起したものの組合活動の大勢にできなかった、ことです。
第3点目に、平成版労働組合の意義と機能の実現を、主に集団的労使関係での集権的組合活動で担えるものと考えていた、ことです。

 

平成版「労働組合の意義と機能」の限界は、主に次の図表で示した労働組合の領域「D」での活動で、組合活動の活性化(業態転換)を目指していたことです。領域「A」の活動(個別労使交渉・協議と職場での自主管理活動)への洞察が不足していました。

【労働組合の活動領域】

出所:西尾(2023:3)より


それは、昨今、企業側の労働者管理が、労務管理⇒人事・労務管理⇒人事管理⇒人的資源管理と呼び名が変化していることに代表されるように、労働者への個別主義的管理に移行していることの意味を十分にとらえきれていなかったのが原因でした。今日の労働者の主流となっているホワイトカラーの労働者の特質を十分に把握できていなかった、ともいえます。

 

ホワイトカラーの特質を、松尾(2020)は、①職務における非肉体(ノンマニュアル性)、②企業者からの権限移譲性、③作業現場からの隔絶性という3つの集合的アイデンティティと共に、それらを前提にした上での職務の性格―職務の遂行にあたって一定の知的専門的能力が要求されるものの、プロフェッションでもルーティーン的な業務にたずさわるでもない、内部労働市場のキャリアパスの中でそれなりの昇進と処遇が期待できる年功的職員層(中間管理職およびその予備軍)(pp.12-15)として捉えています。

つまり、ホワイトカラーの労働組合の中心的活動対象層は、内向き(企業内的)であり、個別管理され、経営側からの自律性が比較的低いノンキャリア層(pp.19-20)で、ブルーカラー労働者の集団行動を通じての集団的地位向上や集団的目標と集団的行動を本来的に価値あるものとみなす集団主義と比較すると、ホワイトカラー労働者は、個人の地位上昇と個人の業績の帰結や、個人的目標と個人的手段を本来的に価値のあるものとみなす個人主義に貫かれる(p.25)と、ホワイトカラー労働者の性格を規定しています。

また、禹・沼尻(2024)は、日本の労働者が一貫して求めてきたのは、人並み=一人前としての承認に他ならなかった(p.13)として、一人前とは、ある場において、話し合うことにより、自分の価値を人並みとして認めてもらう、成員としてふるまうことと述べています。

また、一人前として認めてもらう場合、自分の性質・素養・能力などが価値のあるものと主張し、それを相手側に受け入れてもらわなければならない(p.14)。そしてさらに、その場の成員として対等にふるまうことであり、企業であれば、単に賃金を受け取るだけでなく、自分の処遇にかかわる重要な意思決定に継続的に参加することである(p.14)と述べています。

だとするならば、日本はホワイトカラーだけでなく、ブルーカラーにおいても人事評価を受け入れている「極北の地」(by.石田光男)の住人なのですから、目標管理・人事考課制度の各面談を逆手に取って、その場にて個別労使交渉・協議力(発言力)を発揮していく道を模索するのが「極北の地」の労働組合として、当然のことだといえるでしょう。

 

だとすれば、西尾(2023)での調査研究を通して示した、令和版の「労働組合の意義と機能」としての次の5項目こそ、小池和男も指摘する「ホワイトカラー化された労働組合」の目的としても、確認されるべきものといえましょう。

1点目が、成果主義型の賃金・人事制度への改革に対抗できる個別労使交渉・協議力(発言力)と職場の自主管理(民主化)力を高めること。

2点目が、組合員一人ひとりから職場集団までの領域において、自律・当事者型の分権的組合活動を推進すること。

3点目が、性別・身分にかかわらずすべての労働者が、担当職務を通して活躍する職場を作り出すには、個別労使交渉・協議力(発言力)や職場での自主管理(民主化)力を高めていくことが、一番の解決策であること。

4点目が、ダイバーシティ&インクルージョンの実現にも、この一点から突破され、全面展開されること。

そして、5点目に、個別労使交渉・協議力(発言力)こそが、動態的課業管理(PDCAサイクル)や人事査定が、パートタイマーにまで浸透する成果主義の時代を生きることになった、雇用労働者に求められる新たな労働運動=発言(Voice)運動であること。

以上の5点が、「人への投資」で、労働組合が一番優先すべき組合活動であり、言い換えると、「個を活かす組織」にしていくための一番大事な取り組みである、ということです。

 
 

しかし、私の主張に対して、労働組合及び活動が、個別的労使関係に組み込まれると、ノンユニオニズムになるのではと危惧し、心配する人がおられると思います。私は、そのような疑問を抱かれている方に、次のように問いかけたいと思います。

 ならば日本の労働者および労働組合は、

  1. 集団的労使関係から個別的労使関係において賃金、処遇、仕事の進め方・仕方を決めることを必然とする動態的課業管理や人事査定を拒否すべきだったのに、なぜそれをしてこなかったのか。

  2. 戦後に労組からの要求で普及した生活保障給の典型といわれた電産型賃金体系にさえ、能力給の割合が約20%強組み込まれていたのはなぜなのか。

  3. なぜ職務給の導入に反対し職能給に賛成して、能力主義管理を受け入れていったのか。

―以上の3点を、是非、考えて欲しいのです。

 そればかりか、日本の企業という組織では、個別的労使関係において労働者は、実は決して弱い立場ではないのです。

 松山(2018)は、「フォロワーたる労働者はもはやかつてのように、資本家にただ盲従するだけの存在ではない」(p.2)、と指摘しています。

古くは、中根(1967)においても、「タテ」社会の組織におけるリーダーと集団の関係は、保護は依存によって答えられ、温情は忠誠によって答えられる(pp.136-137)ため、リーダーの情的なメンバーへの思いやりは、常にメンバーへの理解を前提にすることから、メンバーの説、希望を取り入れる度合が大きい(p.138)、と指摘しています。

そしてさらに、中根(1967)が、日本の組織では、リーダーの権限が非常に小さい。外部の者が考えるほど、そのリーダー個人は、権力をもっていないのが普通である。そのリーダーの権力であるかにみられるものは、実は、その集団自体のものであり、リーダーはその代表者といったほうが適切な場合が圧倒的に多いのである。日本の場合、極端にいえば、リーダーは集団の一部にすぎないのである(p.138-140)、と述べています。

そればかりか、企業における日本的リーダーは、どんなに能力があっても、他国のリーダーのように、自由に自己の集団成員を動かして、自己のプラン通りに他の成員を強い、意向をおさえてまでことを運ぶことはできない(p.152)、との中根の指摘に注目すべきです。

さらに、中根(1967)は、“上司から部下への命令というのは、命令を受けた部下がその命令を受容したこと成り立つ”とするチェスター・バーナードの権限授与説にも着目し、日本の企業という組織では、個別的労使関係において労働者は、実は決して弱い立場ではない、というのです。

リーダーと部下との相対的な力関係によって、リーダーのあり方が決まってくる。日本的社会集団においては、組織が個人に優先している。リーダー(また上にある者)に対して部下の力が強い、ということがいえよう。日本のリーダーほど、部下に自由を与えうるリーダーというものは、他の社会にはちょっとないであろう。これは同時に、驚くほど自由な活動の場を与えている組織である、と中根(1967)は指摘しています。

 

今日の、労働組合に差し迫る一番の課題である、①組織率の低下(非正規労働者を組合員にするモチベーションが働かない)への対処策として、私は、労働組合モデルを、現行の賃金・労働条件引上げモデルから、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル=人々の協調行動を活発にすることによって、組織の生産性を高めることのできる「信頼」「規範」「ネットワーク」といった仕組み)モデルに切り替えることを推奨します。

なぜならば、これまでの賃金・労働条件引上げモデルのままでは、①の課題である非正規労働者を組合員にしようとすると、非正規労働者の賃金・労働条件の引上げ(同一労働同一賃金)にするために正規労働者の賃下げや労働条件を低下させることにつながらないか、雇用調整の必要性が生じたときの防波堤や緩衝帯が失われるのではとの不安が組織内に生まれ、組織化モチベーションが働かないからです。

また、テレワークの時代の業績管理(考課)は、ますます拡大するでしょう。したがって、どんな賃金制度を改善したとしても、労組主催の被考課者訓練の実施と、実施後の実施レベル確認のアンケート調査とインタビュー調査を繰り返し、その制度が本来の目的通りに運用されているのか、また労働力の個別取引に規制力が働いているか、活動しながら調査し、調査しながら活動していく対応策が不可欠です。

また、日本の労働時間管理は、集団的労使関係では大枠を決めているだけで、実際の運用は職場・個々人に丸投げされています。したがって、目標管理・人事考課制度の各面談を通して、業績達成に必要な労働時間がどれだけのものになるのか、そのことの交渉・協議もわすれないようにすることが必要です。

昨今、労働組合が取り組むものとして、組合員向けのキャリア自律支援がありますが、問題を内包しています。それは、どうしても個々人の自由と自己責任によるエンプロイアビリティ能力の開発になりがちで、資格修得的学習になってしまいがちなことです。

いまだ、日本の雇用システムは新卒一括採用方式なので、採用にあたって職務(ジョブ)遂行能力が求められていないし、配属された職場で、毎年動態的に課業設定されながら、上司や先輩からOJTされて、キャリア形成がされるスタイルです。このようなメンバーシップ型雇用のキャリア形成なので、自己責任でキャリア開発する習慣が身についていません。そのため組合員アンケートなどで、「学ぶ時間(余裕)がない」との依存的発言が多々見られます。

したがって、組合員向けのキャリア自律支援においても、個別労使交渉・協議(目標管理・人事考課制度の各面談)力を育成して、会社の要求と自分のキャリア目標の折り合いをつけていく力がなにより必要です。

ただし、上記した個別的労使関係における分権的組合活動においては、個々人だけでの取り組みでは限界―個別労使交渉・協議に得手不得手もあることから、職場労使懇談会等による職場での自主管理活動によって個別労使交渉・協議を補い、職場でのチームワーク力と労働時間管理力を高めることが求められることも忘れないでください。

 

最後に、西尾(2023)が示した新たな知見として、次の5点をあげることができます。

⑴資本主義下の企業における上司と部下との関係の中に、労使関係を必要とする空間領域は存在し、消滅することはない。特に、日本は「タテ」社会の人間関係(中根1967)であるために問題が生まれ続ける。

⑵上司と部下との関係において生まれる問題が、人的資源管理の枠内(制度)で解決されしまうことなどあり得ない。

⑶個別的労使関係にこそ、もはや集団的労使関係では失われてしまった労働組合の存在価値や、緊張感を持った新たな労使関係(新たなユニオニズム)を作り出していく、労働組合活動を発展させていく可能性がある。

⑷どのような時代の企業経営になろうとも、職場には労使関係の調整を必要とする空間領域が生まれているから、組合員一人ひとりが「職場の主人公」となって、領域Aにおける個別的労使関係に発生する問題を解決する組合活動の機会や場を用意する必要があること。

⑸その機会や場として、目標管理・人事考課制度の各面談を逆活用して労使交渉・協議にすることや、職場リーダーを中心にした職場での自主管理活動が用意されていけば、労働組合活動の再活性化は可能となる。

まとめると、労使関係とは企業と労働組合との間に存在する関係だけではなく、資本主義社会である以上、1対1の上司と部下との間に、労使関係を必要とする空間領域が存在し、労働組合の存在価値や機能は、その空間領域に新たに生まれるものも含めて存在し続けます。

集団的労使関係での集権的組合活動は、個別的労使関係での分権的組合活動が活発化することで蘇生され、逆に、その個別的労使関係での分権的組合活動は、集団的労使関係での集権的組合活動によって保証・補完されることで活発になるのです。

本シリーズ「個別的労使関係での分権的組合活動の理論と手法」が、西尾(2023)と併せて、みなさんの労働組合活動の活路を開く、参考になることを期待して筆をおくことにします。ご愛読ありがとうございました。

 

【追伸】
なお現在、本稿及び西尾(2023)における日本の労使関係の考察において、ジェンダー問題の視点が欠けていたと反省しています。今後の課題にしたいと思っています。

 

 

参考文献

禹宗杬・沼尻晃伸(2024)『<一人前>と戦後社会―対等を求めて』岩波新書
松尾孝一(2020)『ホワイトカラー労働組合主義の日英比較―公共部門を中心に』お茶の水書房
松山一紀(2018)『次世代型組織へのフォロアーシップ論―リーダーシップ主義からの脱却』ミネルヴァ書房
中根千枝(1967)『タテ社会の人間関係』講談社
西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社