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「会社は誰のもの」~倫理を失った資本主義の末路~

このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。


 今、私たちが当たり前に過ごしている資本主義という経済・社会システムはいつ頃誕生したのか。遡(さかのぼ)ればそれは、産業革命後のアメリカの独立革命やフランス革命などの時期に確立されたといってよい。

 産業革命前の権力者による封建的支配に甘んじていた市民が、市民革命によって自由を獲得、財を持つ一部の市民が資本家になっていく。資本を有する資本家(株式市場になってからは経営者)が企業を起し、企業を通じて労働者を雇用し、その企業が物や財、サービスを生産し市場に流通させる。その際の価格は、材料費や労働者の賃金を上回る水準で決め、上回っている分が利益というシステムである。

 株を通じて資金を調達して会社を経営する「株式会社」に対し、個人の資本(あるいは全株を保有する)で経営する俗にいうオーナー企業があるが、後者の部類に属するのが今、話題になっているビッグモーターなどである。後者(すべてとは言わないが)の最大の難点はオーナーの個人的な独裁的経営手法である。オーナーによる独裁的経営手法は、多数の株主が経営をチェックし、過ちを正すチャンスが生まれないことである。

 ところで日本で初めてつくられた株式会社はどこなのか。

【『帰国7年後の1867(慶応3)年4月、上野介は日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立した。建議書にこうある。要約すると、「こんど、兵庫(神戸)を開港するについて、これまで長崎・横浜を開いてやってきましたが、西洋各国で港を外国に開いて国の利益を得ているのに反し、日本は開港になるたびに国の損になっている。これは商人組合のやり方をとらないで、薄元手の商人一己一己の損得で貿易を行っているためである」ということである』】

『幕末遣米使節 小栗忠順(ただまさ) 従者の記録』(編著・村上泰賢/上毛新聞社)

 明治維新の関わるドラマで必ず取り上げられる坂本龍馬が長崎で設立した「亀山社中」よりも、定款や役員までも明記したより株式会社の形に近いのは上記の小栗忠順だったといわれる。

【小栗上野介が初めて「株式会社」というものの存在を知り、理解したのは、1860年、遣米使節として訪れたパナマで、蒸気機関車を目の当たりにしたときのことでした。
さて、『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の中には、パナマの駅でアメリカ側の接待委員に食らいつき、矢継ぎ早に質問を投げかける小栗上野介が登場します。
 小栗の関心は、蒸気機関車の装備やカラクリではなく、むしろ、この壮大な鉄道を建設し運営するのに、費用はいったいいくらかかり、そして、その資金をどうやって集めているのか、ということに集中していたようです。
 通訳を通じて、「金持ちのアメリカ商人たちから700万ドルの資本金を借り受け、companyという組織をつくり、金を出した者には年に1割2分の利息を加えて返済している」という回答が伝えられると、小栗は何度もうなずきながら、こう言うのです。
「なるほど、コンパニー、なるものをつくり、資金を集めるのか・・・」】

同上

 多くの人から資金を集め「会社をつくる」という考え方こそ、今の株式会社へとつながるのである。
 株を購入して資金を提供する人が株主となり、株を通じて経営者に事業を行う権限を委任する形になるが、これが投資ということになる。だから投資というのはあくまで事業を行う権限を経営者に委任し、会社があげた利益の一部を配当としてもらい受ける形をいうのだ。
 企業が発行する株式は、株の売買を行う株式市場では業績によって株価が上下する。業績が良ければ株価は上昇するので、安い時に株を買い高くなった時に売れば、株の売買で利益を上げることができる。株式市場は、この株の売買によって成り立っているのである。
 株を購入してその会社の経営に資するのが「投資」であり、株の売買によって利益を求めるのは「投機」といってもよい。
 人間の欲望は果てしない。投資した会社の発展を願ったはずの資金提供が、株価の上下によって利益を求める欲望へと変貌していく。「投資」の精神が「投機」の欲望へと変質すると、株価を上げるためには何でもする風潮を生み出してしまう。なのに「物言う株主」などと体裁のいい表現で本質を覆い隠すことも起きている。

 こうした風潮で最も影響を受けるのが、対象となった会社に勤める従業員に他ならない。従業員の処遇を犠牲にしても短期的な利益を追求する経営が行われやすいからである。
 従業員で組織する労働組合は、こうした場合にどのように対応すればいいのか。経営者によっては、経営権に属するもので労使交渉に馴染まないと主張するだろうし、組合員の理解も得られにくいかもしれない。
 さらに論争となっているのが、「会社はだれのものか」というテーマである。
 会社の目的は利益を上げることによって雇用している従業員の雇用を守ると同時に、株主の利益を最大限上げることにあるが、後者に比重を置くと、会社は「株主のもの」となるし、前者に比重を置けば「従業員のもの」ということになってしまう。
 最近の考え方は、会社の存在は「株主、従業員、顧客、取引先、国民社会すべてのもの」というものが主流になっている。その延長線上には、「会社は地域の利益、雇用、環境を守る責任がる」という理念がある。この理念が「企業の社会的責任」と言われるものである。
 オーナー企業は別にして、株式会社では、資本を提供する株主は直接経営には携わらず、「経営は経営者に任せる」という「所有と経営の分離」という性質を持っている。資本を提供している株主が、経営に携わるのがオーナー企業と言われるものであり、ゆえに他の経営幹部は異論を唱えることを遠慮、あるいは抑えこまれてしまう。独裁的経営が生まれる素地が出来上がる。
 もちろん、経営には口を出さないオーナーもいるが、その場合は「所有と経営の分離」という大原則が確立されているからである。もっとも株式を通じて大きな資金を調達する株式会社方式では、資本が分散されているから「所有と経営の分離」が確立されこうした現象は避けられる。
 だから会社の利益が株主に還元される一方、会社に損失が出た場合も株主は配当を受け取れない、あるいは株価の下落による「自分の資産の減少」を甘んじて受け入れなければならない。

 より良い会社経営を求める「投資」と、株価の上下による利益を求める「投機」は、まったく似ても似つかないものであるがゆえに、私たち労働組合は、自分が所属している会社が市場でどのように扱われているのか、あるいは投資ファンドのエサになっていないか、など、絶えず注意を払っていなければならないだろう。


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