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1ドル360円時代を懐かしむ

このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。


 2023年10月、日本の為替相場は1ドル150円を上下し、世間では「円安 ! 円安 !」と話題になった。

 長く鎖国で外国との接触を避けてきた日本は、明治時代まで世界貿易とは無縁な通貨制度を保ち続けてきた。
 他国に比べて遅れたとはいえ、明治の近代化はさまざまな変化をもたらした。それまでの日本では、さまざまな通貨が流通していた。戊辰(ぼしん)戦争が終わり明治政府によって日本は統一されたが、通貨については江戸時代のまま何の変化もなかった。資料によれば江戸時代の通貨は、大判・小判に代表される金貨があり、銀貨や銭貨のほかに、各藩が出していた藩札が流通していた。


【江戸時代の貨幣は、4進法と10進法で計算された。貨幣の単は両・分・朱とあり、4朱で1分、4分で1両と4進法で位上(くらいあ)がりした。両からは、10両、100両と10進法で計算した。江戸時代の貨幣制度「三貨制度」と呼ばれ、金・銀・銅の3種からなるお金の制度であった。金貨には「大判」「小判」や「一分金」、銀貨には「丁銀」「豆板銀」、銅貨には「一文銭」などがあった。金貨、銀貨、銭貨の間には幕府の触書(ふれしょ:江戸時代、幕府や藩主などから一般の人々に公布した文書)による御定相場も存在したが、実際は互いに変動相場で取引されるというものであり、両替商いう金融業が発達する礎を築いた。江戸時代の通貨は、金、銀、銭の三種類(三貨)であった。】

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 戦争には資金が必要だから、この戊辰戦争を戦った明治政府も資金調達のために太政官札(だじょうかんさつ)と民部省札(みんぶしょうさつ、いずれも不換紙幣)を発行していた。だから、戊辰戦争が終わって明治国家が建設された直後の日本では、江戸幕府の定めた貨幣・藩札・明治政府の発行したお金というように、実に多くの種類、多様な通貨が流通していた。さらに江戸時代に発行していた貨幣は質が悪く、同じ額面でも価値が違っていたともいわれている。

 この混乱した貨幣制度の中で、明治政府は1871年(明治4年)に「新貨条例」を公布し、統一した貨幣制度を確立した。
 混乱した貨幣制度は日本経済にどのような影響を与えていたのか。例えば、大阪で使えていたお金が北海道では使えないとか、一週間後には持っている貨幣の価値が変動しているといった状況があったという。そうなると何種類もあるお金を取引の際にわざわざ両替しなくてはならないことになる。それではいくら何でも流通が滞るなど、経済活動が停滞してしまう。取引の際に混乱を起こしてしまうと、経済活動にも大きな悪影響が出てしまう。
 経済活動を正常に戻すためにはどうすればいいのか。混乱している貨幣の在り方を正常に戻す必要があったのである。

 そこで明治政府は、混乱した貨幣制度の正常化を図るため、新貨条例を公布するのである。1871年(明治4年)のことである。
 その際に最も必要であったのが、貿易相手国である欧米が採用していた金本位制への移行であった。
 いうまでもなく金本位制とは、紙幣の価値が金貨によって裏付けられる制度で、簡単に言えば1万円札を持っていけば、1万円分の金と交換してくれる通貨制度(それを国が保証する)のことである。金は今でも同様に物価が変動しても価値は変わらない。価値が変わりにくい金によってお金(紙幣も含めて)の価値を定め信用性を持たせる仕組みである(現在でも戦争などの時には貨幣の価値は混乱するので不変の価値を持つ金=きん=が尊ばれる)。
金(きん)と交換することのできない紙幣は金本位制の国からみれば信用されないことになる。
 金と交換できるなら金と交換して本国に持って帰っても価値は変わらない。しかし、金と交換できない紙幣を持っていてもそれはその国以外ではただの紙切れに過ぎない。
 日本が金本位制を導入するということは、発行した紙幣は金と交換できなければならない。それではじめて欧米諸国との貿易が可能となるのである。
 私に物心がつき、海外旅行に興味を抱いたころは1ドル360円で、しかも海外に持ち出せるドルの上限が決まっており、記憶に間違いがなければ上限は日本円で10万円だったように記憶している。ドルに換算すれば300ドル程度であった。

 ここで貿易に必要な円とドルの為替レートにふれてみよう。
明治4年(1871年)、時の政府は新貨条例で「円」の呼称を採用し、ドルとの交換レートは、その時の1円で金(きん)1,500mgが買え、1$で金1,500mgが買えたので、それをもとに算出して、交換レートは1$=1円であった。(1円と1ドルで同じ量の金が買えたということ)。
 明治30年(1897年)になると、1円で金750mgが買え、1$で金1,500mgが買えたので、交換レートは1$=2円ということになる。(同じ量の金を買うには、円はドルの2倍の金額が必要ということ)。 同じように、その後の各国の物価上昇をもとに算出し、第一次世界大戦後の昭和10年(1935年)には、交換レートは1$=3円50銭になる。
その後、第二次世界大戦が終わると各国はインフレにさらされるが、中でも敗戦国日本は超がつくインフレに見舞われたため、思い切った政策をとる。 昭和21年(1946年)には、国民に5円以上を強制預金させ、1人100円までを新円と取替え、残りを封鎖するという荒業ともいうべき政策をとる。これで流通通貨は4分の1に減少したので、さすがのインフレも沈静化していくのである。
 昭和24年(1949年)に1$360円の交換レートが決定されるが、その根拠は次のような理由による。
 昭和10年の交換レート1$=3円50銭を基準とし、それ以降、アメリカの物価上昇は2倍、日本の物価上昇は実に208倍であったため、アメリカを1とすれば、日本の物価はアメリカの104倍になる。
 従って、昭和10年の交換レート1ドル3円50銭を104倍すると1ドル364円になる。端数処理して交換レートは1$=360円となる。
 こうして日本の1ドル360円時代が始まるのである。私の初の海外旅行の際の1ドル360円はこうして決められていた。

 その後、経済のグローバル化によって為替レートは、各国のインフレの動向や経済力など、為替市場で基軸通貨であるドルをもとに決められ現在に至っている。日本の円は、経済の発展に応じ1ドル360円の固定相場制から「半固定相場制」、そして現在の「変動相場制」に移行してきた。
 現在(2023年10月)のレート1ドル150円が日本の経済力にふさわしいのか、あるいは為替市場における投機によるものなのか、素人の私にはわからないが、はっきりしているのは、

【第二次世界大戦末、アメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで連合国軍側45カ国が集まり「連合国通貨金融会議」を開催、IMF(世界銀行)とGATT(WTOの前身)を軸とした第二次世界大戦後の国際経済体制のあり方について合意した(IMF協定)。
 1, ドルを国際決済通貨と定め、「準金本位制」として1オンス35ドルの固定価格とすること。
 2, 各国の為替相場の変動を平価の上下1%以内に抑えること(同時に平価は基礎的不均衡がある場合にしか変更が認められないこととした)。
アメリカは第二次世界大戦終結時で世界の金備蓄量の80%を持っていた。第二次大戦まで世界の中心であった欧州は、第一次に続く二度の大戦で工業生産施設は破壊され金もほとんど使い果たし、金の備蓄は底をついていた。
世界経済の中心であり、かつ金の備蓄の大半を握っているアメリカのドルが決済通貨のため、未だ国際競争力のない欧州やアジアにはドルが集まらず経済発展は図られなかった。そこでアメリカは、欧州と日本には経済援助(欧州にはマーシャルプラン、日本には朝鮮特需と技術支援)で復興を図り、さらに意図的に自国の輸入を拡大させてドルを世界中に出回らせた。こうしてアメリカの貿易赤字が慢性化していく。】

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 基軸通貨国は世界経済の中で特権的地位をもつことができる。アメリカのドルがその地位を保ち続けることができるのか、中国の「元」が着々とその地位を狙っているとの報道もある(一部のアジアの国ではすでに「元」で貿易の決済をしているという)。
 貿易立国ともいわれる日本経済にとって、基軸通貨の混乱は想像以上の影響を受ける難題ゆえに目が離せないのである。円安になっても円高になっても国内経済は影響を受けてしまう。為替レートは常に安定していることが最も望ましいといえると思うのだが。