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【No.7】能力主義管理(人事査定)を是とする日本の労働者には、目標管理・人事考課制度等の各面談を個別労使交渉・協議にする必要がある

j.union社の“WEBメディア―勉強note「働く×マナビバ」”開設にあたり、これから趣を新たにして、私の遺書として上梓した西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社の内容紹介を兼ねて、シリーズにて「個別的労使関係での分権的組合活動の理論と手法」を綴っていきます。
※前回の記事はこちらから


今月は、個別的労使関係での個別労使交渉・協議を必要とする先行研究として、黒田(1992)と鈴木(1994)に注目します。

黒田(1992)は、職能資格制度が労使交渉の否定ないしは制限を原理としたものであることの根拠に、

「労働者の処遇と配置を経営者がきわめてフレキシブルに専決できるタイプにほかならないからであり、職能資格制度はそれを支え制度化したものといえよう」(p.255)

と主張して、職能資格制度は労使関係の否定、ないしは制限を原理的前提にしており、人事考課の恣意性の問題とともに、重大な問題をはらんだ制度である(p.256)と批判します。

また、職能資格制度が導入されたのは、1960年代以降、民間大企業では戦闘的組合は排除・追放され、協調的・企業主義的な組合が成立・育成されていた。この協調的労使関係の成立によって「能力」を労働組合らしく評価して公平に処遇に反映される回路が塞がれてしまった結果である(p.260)と指摘しています。
 
 
さらに、黒田(1992)は、職能資格制度によって、

「戦後の労働者が抱いていた社会的『上昇志向』と平等化要求が変形された形で労務管理の中に閉じこめられてしまったのである。『上昇』の機会を平等化すること、『能力』に応じた処遇を受けることも、労働者と労働組合にとっては過酷ではあるが、ある種の民主主義と理解されるようになったのである。公平処遇というその限りでは純粋な労働者の要求は、『競争への参加機会の平等化』という形で資本主義的に『変容』され、能力主義管理の『受容』と『底なしの競争民主主義』の思想が確立していったと思われる」(p.260)

と解釈しています。
 
人事考課の抱える課題として、「能力」基準・要件はかなり詳しく網羅的に明示し公開している。ただ多くの事例を見ると、実際的には、それは概して概念的・抽象的であるにすぎない。「能力」の中味である職務を遂行していく能力(=職務遂行能力)とは、職務そのものでもなければまた能力そのものでもない。そればかりか、日本ではそもそも職務範囲が「柔軟」で明瞭に規定されていないため、それを遂行する能力といっても不明瞭・不定型にならざるをえないので、職能の中味の設定もまたその解釈も、経営側が独自におこなうことが前提にされている(p.255)のだと批判的に指摘します。

そのうえで、「労働組合は『武装解除』にも等しいこの制度をなぜに『受容』したのだろうか」(p.256)との疑問を呈するのです。


鈴木(1994)も、「能力主義管理」が形成されたのは1960年代半ばから採用が始まり、本格的展開(採用企業の広がりと賃金中の能力給割合の増加)となったのは70年代後半から80年代にかけてである、としている鈴木は、日本の労働者は、企業が導入しようとした職務給(1950年代から60年代半ばまで)には、強い反発を示したが、その後の「能力主義管理」(職能給)の導入にあたっては、そうではなかった、との疑問を投げかけます。

そして、職務給導入に反対した理由を、職務給は、年齢・勤続にともなう賃金上昇を努力の一つの証として感じる日本の労働者の意識と衝突せざるをえないものであった。そのため、努力に対する公平な処遇という労働者の要求は、ポストの制約という職務給に固有の原理によって競争主義の無常さへとすり替えられ裏切られることに対する抗議を意味するものであった(p.185)、と説明します。

このような理由や背景から浸透した

「能力主義管理」の克服策として、黒田(1988)は、「職場の労働者の処遇と生産・労働の在り方を変革すべく、『働く人がその仕事に誇りを持ちながら共生しうる』職場ルールの現代日本的形態を模索することが必要であろう。この課題は既に本稿の領域を超えている。ただ出口は塞がれていない。それは何よりも職場そのものにある」(p.321)

と指摘するにとどまりました。
 
鈴木(1994)の「能力主義管理」克服策は、「能力主義管理」が、日本の企業労働の厳しい現状を自らのそれとして実行することを、「仕方がない」と労働者に意識させる最大の強制力となっており、またそれが、①「業績考課」に代表される、高い管理的要請内容の逃れ難き明瞭さ、②企業倫理そのものであるその要請に対して生活や権利などの異質の論理を対置する態度を峻拒する、「情意考課」に代表される管理的裁量、この二つの側面の結合となって、「強制」と「自発」を生み出すものとなっている(鈴木1994:231)、と考察し、「能力主義管理」の「強制」と「自発」は、「管理者と労働者の個人的な人間的交渉として労働者に意識されている」(p.236)、と、個別労使交渉・協議の必要性を見抜くものとなっています。

さらに、鈴木の「能力主義管理」克服策は、QCサークル活動などの小集団活動などの「参加」型管理も、「強制」と「自発」の結合による日本的な管理の一環であり、日本企業が、中途採用者の賃金水準と賃金上昇率を「標準労働者」よりも低くするのは、企業個別化された労働市場を追求する雇用慣行が作り出す運命共同体と囲い込みの関係にある(鈴木1994:263-274)としています。

だからといって、労使対立型にすると

「対決型労使関係に付随する負の側面も無視できない」(p.298)ので、鈴木は対処策を探るべく、「『従業員』制に残る『自立』の側面を大切にして、『協調』のなかに『自立』を育てる道はあり得ないのだろうか」(p.298)

との問いを発します。
 
そして、

「協調を引き出すと同時に自立の基盤をそぐ傾向をもつ雇用慣行の下で、労働者が経営に対する独自の対等的発言力を、経営側の『善意』に依拠せず確保する条件は存在するか」(p.298)とか、「日本的労使関係だからこそ取り入れられた歪んだ『自発』の側面に別の息吹をあたえる構造と変わりうるかもしれない。それはどの程度に現実的であろうか」(pp.298-299)

などと自問して、日本における労使関係において、個別的労使関係がいかに重要な場や機会であるかを指摘します。

1990年代までであれば、黒田や鈴木のような疑問を持ち、とまどうのもいたしかたないでしょう。しかし、21世紀にはいっての成果主義改革によって、人事考課制度に目標管理制度が連結され、個別労使交渉・協議の場と機会が確保されたことで、労働者および労働組合は「再武装化」することができる、と捉えられるのではないでしょうか。また、その実例は後述します。

黒田(1988、1992)と鈴木(1994)の問いに答えることのできる条件は、日本の労働組合の集団的規制力の欠如を嘆くだけでなく、「能力主義管理」を是とする日本の労働者ならではの労使関係を逆活用して、目標管理・人事考課制度の各面談(1on1ミーティングも含む)を個別労使交渉・協議にして、発言していく道(それは、欧米での労使関係ではあり得ない動態的課業管理に対抗する道でもあります)を模索することで、切り拓かれるのではないでしょうか。
 

参考文献
黒田兼一(1988)「競争的職場秩序と労務管理―『能力主義管理』を中心にして」戦後日本経済研究会編『日本経済の分水嶺』分眞堂
黒田兼一(1992)「戦後日本の労務管理と競争的職場秩序―『職能資格制度』を中心に」日本経営学会編『世界経済構造の変動と企業経営の課題』経営学論集第62集、千倉書房
鈴木良治(1994)『日本的生産システムと企業社会』北海道大学図書刊行会


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