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イギリスの議会制民主主義と労働組合

このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。


世界の中で、議会制民主主義のお手本とされているのがイギリスであるが、なぜイギリスで議会制民主主義が誕生し、今日まで発展してきたのだろうか。

 世界の歴史の多くは、封建制度から民主主義社会の構築へと進んでいくのだが、その先頭にはイギリスが君臨している。民主主義の象徴は、それまでの王侯・貴族による封建的権力の行使から、市民の選挙による多数派権力の行使になるのだが、この権力の移行は単純に行われたものではない。長い期間にわたる市民の汗と努力の結晶なのである。その結晶の最大の特徴は議会の創立にある。


 ウィリアム・H・マクニールはその著書(「世界史」)で、次のように指摘している。

【名誉革命の直前、イギリスの君主たちは、議会を信頼し難いものとして位置づけていたため、地方の要求と国の政策の要求をうまく調整することはできなかった。名誉革命によって誕生した新しいイギリスの国王は、大陸でフランスに対抗する軍事的連合に関心を持ち、誰も議会指導者を避けようとしたり統制しようとはしなかった。だから議会の指導者たちは、地方、国家、国際関係などの競合しあう要求を十分に尊重して国を治める習慣を発達させ、そのために必要な諸制度を作り上げた。

 その結果、内閣は王によって任命されていたが、議会に対しても責任を負うシステムとなった。内閣が議会の多数派の賛同を得て法案を通過させる力は、議員間の自由な討議によるものとはいえ、実質的には、党派、政党の連合によるもので、現在の政治システムの原型をなしていた。したがって、多数派になれなかった勢力からは絶えず不満が出され混乱したが、そのくり返しによって、議会で代表される利害が絶えず変化する状況が議会制の長所として認識されるようになる。それまでの中央集権的な官僚制度では、このように敏感に社会の変化に適応できなかった。このようにイギリスの議会制はたしかに優れていたが、議会そのものは民主的とはいい難く、腐敗した選挙区、政治的庇護者の取立てに加え、財産を持たない多数の市民は議会に代表者を持っていないなど、財産家や名門の人間たちが議会を完全に支配していた。

 これらの内閣府と議会の関係とあわせ、国債が発明されたのがイギリスの国力の上昇に寄与する。それまでの戦費調達は、政府の借金は王の名において行われ、王個人の責任において返済しなければならなかった。1694年に議会はイギリス銀行を設立。銀行は議会に金を貸し、議会によって保証され、議会が決める税金によって返済が保証された。政府が緊急の支出の財源を作るために社会から金を借入することを可能にしたのである。イギリスの議会制度はこうして発展していくが、しかし途中には、ジョージ三世が、王党を育成して議会を統制しようとしたが、アメリカの独立戦争で敗北を喫したため、失敗であることが証明されてしまった。】

ウィリアム・H・マクニール「世界史」

 このイギリスの議会制は他のヨーロッパ諸国に、それまでの自分たちの柔軟性を欠いた政治システムを再編成するための模範になったといわれ、今日の民主主義国家を作り上げていくのである。

 民主主義国家というのは、一人、あるいは一部の人々による権力の行使を議会によってチェック、時に後押しし、時に行き過ぎをコントロールするシステムがあることを意味する。

 しかし、その道のりは簡単なものではなかった。それまでの制度による既得権益者を中心にした反発は想像に難くない。

【イギリスの議会制はたしかに優れていたが、議会そのものは民主的とはいい難く、腐敗した選挙区、政治的庇護者の取立てに加え、財産を持たない多数の市民は議会に代表者を持っていないなど、財産家や名門の人間たちが議会を完全に支配していた。】

ウィキペディア

 議会制民主主義によって大きな恩恵?を受けたのが一般の市民、その中でも中心を成したのが労働組合であった。

 労働組合を形成する労働者とは。

企業の生産活動があって始めて雇用=労働者が生まれる。そして人間の尊厳を維持できる労働条件を確保するわけだが、会社と労働者の彼我の力関係は歴然としている。

すなわち、会社にとっての労働者は生産要素の一部だから、必ずしもAさんを未来永劫必要としない。AさんがだめならBさんでもよいのだ。あるいはCさんに代わってもらっても良い。しかし、労働者の方はそうはいかない。A社を解雇されたら即生活に窮してしまう。

こうした状況を避けるために、会社から「あなたはわが社にどうしても必要な人」と評価されればいいのだ。労働組合が職業能力の向上に取り組むのは必要不可欠な活動なのだ。しかし、こうしたケースはまれであるから、普通の場合、力関係でいえば圧倒的に会社に分があることになる。そこで個人の力ではどうしようもない労働者が、集団を構成して(労働組合をつくって)会社と対等の立場になれるよう法律で決めているのである。そうすると労働組合の活動の原点が、組合員の「人間としての尊厳の確保」と「職業能力の向上」にあるのがよく分かる。

労働者という職業がこの世に出現するには社会が近代化していなければならない。ここでも先進国、発展途上国という差が生まれる。昔を思い起こして欲しい。学校の社会科で習ったように、イギリスで産業革命が起こり(1760年~1830年)、ワットの改良型蒸気機関の発明によって、それまでのマニファクチャ(工場制手工業)から機械化がはかられ近代資本主義がスタートする。仕事は近代化しても人々の意識はあいも変わらずに封建的な部分を残していたので、労働は過酷を極めた。過酷な仕事に劣悪な労働条件のもとで人々は辛酸を舐める。

こうした中で労働者はパブ(居酒屋)に集まって仲間の死亡や病気に対してお互いが助け合うことを始めた。この集まりが労働組合になっていくので、組合のスタートは相互扶助といわれるのである。】

当時の集まりは同じ職種同士(ギルド)が中心で、やがて集団に力がついてくると、会社が人を採用する場合にも職能別の集団からでなければ採用できない。今で言う職能別組合である。余談だが「労働組合の形態は労働市場によって決まる」といわれる理由で、後にふれるが日本が企業別組合になったのも同じ理由だ(次号で詳述)。

こうしてイギリスやドイツで労働組合が誕生するが、当時は児童労働も当然で劣悪な条件で働かされる労働者の生活は過酷を極め、飢え死にする児童や労働者は後を絶たなかった。このような社会のすさまじい状況からマルクス主義が誕生するのだが、やがて資本家対労働者という階級対立と革命を至上命題とするマルクスの理論は破綻を来たし、イギリスでは労働者自らが政党を設立(労働党・1906年)する。


一方、日本で労働者が生まれるのは明治時代の「富国強兵・殖産興業政策」によってである。イギリスに遅れて日本でもやっと産業の近代化が図られ、地方から都会へ多くの人々が労働者として集まってくる。当時から戦前まで、何人かのリーダーによって組合が作られるのだが、リーダーは主として社会の矛盾や精神のありかたに関心を示す人々が多く、労働者の不満をまとめるというよりかなり哲学的(あるいはキリスト教的人道博愛主義ともいうべき思想から組合運動に入るなど)な側面と、アメリカからの影響を強く持っていた。ドイツに後れること30年、アメリカ留学組の片山潜(1859~1933)、高野房太郎(1868~1904)等により1897年(明治30年)に、日本初の労働組合、「労働組合期成会」が結成されるのである。

細かく調べると次のようなことが言える。

【1897年(明治30年)7月5日「労働組合期成会」(労働組合の前身)結成。
同年、12月1日「鉄工組合」結成(東京砲兵工廠、石川島造船所、日本鉄道大宮工場など金属・機械工の組合)。
1921年(大正10年)の友愛会関西同盟を中心として展開された団体交渉権獲得運動、とりわけ神戸の川崎・三菱両造船所の争議において友愛会運動はピークに到達し、運動は敗北に終わったが、賀川豊彦が当面の労働運動の獲得目標と見做した<工場民主>、<工場立憲>という主張は日本の労働者達の胸中に潜在化していた要求を彼ら自身にはっきりと自覚させていった。】