【No.15】個別的労使関係に踏み込んでこそ労働組合の目的が達成される
j.union社の“WEBメディア―勉強note「働く×マナビバ」”開設にあたり、これから趣を新たにして、私の遺書として上梓した西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社の内容紹介を兼ねて、シリーズにて「個別的労使関係での分権的組合活動の理論と手法」を綴っていきます。
※前回の記事はこちらから
西尾(2023)は、大正元年(1912年)の友愛会創立時の綱領に言及し、労働組合の目的は「労働者の地位改善」であった(p.168)と指摘します。
その根拠として、大河内(1980)にて「会長の鈴木文治を中心とした友愛会が関係した労働争議は、いずれも労使間の身分的差別に対する反発が根本の原因だったといってよかった」(p.287)と述べていることを取り上げ、日本の労働組合の出発点は、個別的労使関係における労働者の地位改善を目的にしていたことから始まっている、としています。
禹・沼尻(2024)においても、「日本の労働者が一貫して求めてきたのは、人並み=一人前としての承認に他ならなかった」(p.13)、「明治期以来日本の社会運動の出発点をなしたのは『人格承認要求』であった」(p.20)との見解を示しています。
同じく、栗田(1994)も、「日本の近代化の過程は、精神的に濃厚な平等主義によって特徴づけられていることである。社会主義と見違えるほどにその特徴は顕著であり、平等の主張は正義の主張であった。日本労働運動はその最初の段階から労働者に対する処遇の平等要求を基礎としており、その限りで多くの支持者を見出し、有力な運動として一定の成果を残した」(p.18)と記していることを取り上げつつ、「日本の労働問題は、労働者がこの従属的位置を拒否し、その地位から脱出しようとする意志を示すことによって始まるのである。この意志の根元は自由に対する人間的な欲求であったと前提してよいであろう」(p.24)と見なしていること。さらに、「日本的価値観のもとでの自由の現象形態は、日本の労働者にそれを実現する条件として権力に到達するための行動様式を強制するものであり、立身・出世主義はこのような日本の労働者の行動様式に対応する信条に他ならない」(p.25)と評価していることから、日本の労働組合の出発点にあたり、個別的労使関係に重きを置いた、労働者の地位改善を目的にしていた活動であったことを明らかにしています。
しかし、栗田(1994)が指摘する、このような日本の労働者の「垂直的な社会移動がその基本的な志向となった」行動様式が、企業別組合や工職混合組合を生み出したと見るべきであること。かつ、「労働者にとって自己の位置を確認する基準は技能や職種ではなく、企業という組織体の中で自分が占めている地位であり、他の労働者との上下関係が最大の関心となる。当然それを引き上げることに努力が集中され、努力の成果は地位の上昇によって確認されることになる」との、日本の労働者の行動様式を、大河内(1970)は、次のように否定的に評価しました。
「日本の労働組合は、とかく教科書風に描き出されるような近代的な大衆組織であるよりも、むしろ日本に固有な人間関係や社会風土の中で生み出されたものであり、その点がまた、日本の労働組合の特徴でもあり脆弱さでもあった」と。
このような評価を下した大河内の影響力は大きく、その後の多くの労働問題研究者たちからも、日本の労働組合運動の問題点(弱点)とされてしまった、と西尾(2023)は指摘します。
以上のような経過で、「労使関係論に占める集団的労使関係の呪縛」に囚われた労働問題研究者たちには、その後、1950年代の鉄鋼産業の第1次設備合理化で着手された「職分制度」の導入が、兵藤(1982)が指摘するように、職場運営協議会の廃止によって職場レベルでの組合規制が後退してきている情況のもとで、現場管理者により成績査定をテコに従業員を個々的に掌握しうる体制を強めていこうとするものなのに、なぜ受け入れるのか、理解できないのです。
さらにその後の、1950年代末の鉄鋼産業の第2次設備合理化に伴って導入された「作業長制度」や、1960年代の鉄鋼産業の第3次設備合理化での職分制度にかわる新しい人事制度としての「職掌制度」および「職能給制度」など、いずれも、能力主義管理を通じて競争社会としての企業社会を構築しようとするものであるのに、黙諾する日本の民間大企業労働組合の態度が、歯がゆいばかりでした。
河西(1989)に至っては、「日本の基幹産業の企業別組合は、賃金問題、雇用問題、労働時間短縮問題など、労働条件の改善のために、有能な機能はほとんど発揮していない。さらには、これにくわえて、企業別組合が、企業の労務管理の補完物とさえなっている。またさらには組合内民主主義においても欠けるところが大きい」(p.66)ものとなり、もはや研究の対象にすらならないものとなってしまいます。
なぜ、個別的労使関係における組合活動(個別労使交渉・協議等)が、労使関係論の中で研究対象領域に含まれてこなかったのか、ここがとても重要なことなのでしょう。
西尾(2023)は、労使関係論の古典とされてきた、ウエッブ夫妻の労働組合定義に再度言及し、そして、このように定義される労働組合の方法論が、集団的労使関係での「団体交渉」である、と教科書化されてきたことを、取り上げます。
そのため、今日に至っても、濱口・海老原(2020)のように、「労働条件の維持向上のために必要なのは、経営者と交渉することです。その際、一人の個人が単独で経営と対峙しても、多勢に無勢で要望が通らないことがほとんどでしょう。そこで、労働者が多数団結して、経営側と交渉する、という戦術がとられます。この団結して交渉をおこなうために、労働組合が必要となります」と説明されるのが、一般常識となっています。
さらに、濱口・海老原(2020)では、企業横断型でなく企業ごとに組織されている企業別組合という組織形態は「日本の労働組合というものが、世界でも異質なガラパゴス的形態…それは世界の中で異端なのです」とされ、そのため、「日本の労働組合は社内に閉じこもっているわけだから、組合員が声を上げたりすると経営から厳しい仕打ちを受けてしまいそうで、戦々恐々としてしまいがちです」とレッテル化されてしまいます。そればかりか、「外につながらない労働組合が、社内だけで労働運動を続けているという片翼飛行は、どのような帰結を見せるのか。協調、なれ合い、そして組合弱化」するのが当然と見なしてしまいます。
木下(2021)に至っては、「『個人取引』を放置するならば、生活は『低下』する。…『個人取引』がまかり通っているかぎり、労働者同士の激しい競争を抑制することはできない」(pp.71-72)、と決めつけます。
労働組合が、個別的労使関係に踏み込むことの必要性については、石田(2021)は、「日本の雇用関係の実態に肉迫するにはHRM(人的資源管理論)をIR(労使関係論)的に研究する」(p.1)ことの必要性を説き、その要点は、「日本の雇用関係を『取引なき取引』の関係から、『取引による合意』の関係に進化させる」(p.1)ことだと主張しています。
日本の労働者及び労働組合は、良くも悪くも「個別取引」を容認しているのですから、日本の雇用関係が、「取引なき取引」から「取引による合意」へと切り替えるには、制度として存在する目標管理・人事考課制度(1on1ミーティングを含む)を逆活用することです。
そればかりか、目標管理・人事考課制度の各面談を通して個別労使交渉・協議力(発言力)を発揮・強化を図ることなく、時代の流れだとして成果主義的賃金・人事制度を導入していくと、「組織コミットメントにおける存続(功利)的コミットメント」[1]や「心理的契約における合理主義・金銭契約志向」[2]を高めることとなりますから、労働生産性を高めることはますます困難になるだけです。
労組主導の被考課者訓練(PP型組合員の育成)によって、個別労使交渉・協議力(発言力)が高まり、かつ職場の自主管理(民主化)力が高まることで、組織コミットメントの「愛着(情緒)的コミットメント」[3]や「キャリア追求コミットメント」[4]、心理的契約の「内部キャリア開発志向」[5]や「長期雇用志向[6]」が高まるものとして、維持・発展されることが何よりも求められます。
近年、未組織労働者を中心にした個別的労働紛争が多発しています。日本で多発している個別的労働紛争問題の解決方法は、厚生労働省の「個別労働紛争解決制度」によって、ほぼ労働基準監督署や公共職業安定所による関係法令に基づく行政指導等や、労働局長による助言・指導、紛争調整委員会によるあっせん事項となっています。
企業内での個別的労使関係での問題処理は、苦情処理委員会やコンプライアンス担当部署の問題で取り上げることはあっても、企業内での個別労使交渉・協議としての組合活動事項として取り扱われ、またその実態が研究される対象にはなっていません。
村杉(2013)は、そのような事態になっていることを憂慮し、企業内において、個別的労使関係上に発生する問題の解決に、組合役員が積極的に職場での組合活動もしくは世話役活動として関わっていくことを薦めるものですが、それはあくまでも組合役員による請負代行としての問題解決にとどまっており、組合員当人が問題解決の主人公になることはありません。
個別的労使関係での分権的組合活動(自律・当事者型活動)が必要であるとする理由として、西尾(2023)は、職場において労使関係を必要とする空間領域での問題解決は、その空間内において当事者たちが、労働組合(組合役員)の力を借りて、労使関係問題として取り上げ、解決のための労使交渉・協議をすることが本筋である、と訴えています。
昨今の成果主義的賃金・人事制度(目標管理・人事考課制度)においては、公式的にその労使交渉・協議をする場を会社が準備してくれているのである、とも述べています。
ただし、人によっては個別交渉・協議が難しい場合もあるでしょうから、その場合は、職場懇談会等で、職場での自主管理活動として、問題を取り上げ、労使ともにWin-Winに解決することが必要である、と広い意味の広義での個別的労使関係での分権的組合活動の展開を主張します。
参考文献
禹宗杬・沼尻晃伸(2024)『<一人前>と戦後社会―対等を求めて』岩波新書
大河内一男(1980)『大河内一男集第三巻 労使関係論』労働旬報社
河西宏祐(1989)『企業別組合の理論―もうひとつの日本的労使関係』日本評論社
木下武男(2021)『労働組合とは何か』」岩波書店
栗田健(1994)『日本の労働社会』東京大学出版会
西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社
濱口桂一郎・海老原嗣生(2020)『働き方改革の世界史』筑摩書房
兵藤ツトム(1982)「職場の労使関係と労働組合」清水慎三編『戦後労働組合運動史論―企業社会超克の視座』日本評論社
村杉靖男(2013)『改訂版 企業内の労使関係―「緊張と信頼」関係の再構築に向けて』日本生産性本部生産性情報センター