【No.4】創成期以来の労働者の地位改善要求は、個別的労使関係の分権的組合活動に関わるもの
j.union社の“WEBメディア―勉強note「働く×マナビバ」”開設にあたり、これから趣を新たにして、私の遺書として上梓した西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社の内容紹介を兼ねて、シリーズにて「個別的労使関係での分権的組合活動の理論と手法」を綴っていきます。
※前回の記事はこちらから
前号までの3回で、西尾(2023)は、日本の先進的労働組合においては、成果主義的賃金・人事制度に対抗して「個別的労使関係での分権的組合活動」が生み出されている、という問題意識および仮説設定で調査研究を進めたものであることを示しました。
その問題意識および仮説設定に興味を持たれた読者の皆さんは、つぎに、その調査研究の内容を知りたいと思われたことと思いますが、学術論文の場合、書き方の作法として、調査研究報告する前に述べておかなければならないことがあります。
それは、「筆者の立てた問い」が、どこまでが解き明かされているもので、どこからが解かれていないものなのかを、最初に示しておかなければならないのです。この作業のことを「先行研究レビュー」と呼び、それを行ってはじめて、本書(本調査研究)の新規性や独創性が何であるのか、明らかになるからです。
そのため、すこし長舌ぎみ(今月号のNo.4からNo.7まで4回に分けての解説)になりますが、日本における労働組合の創成期にまでさかのぼって、そこから今日まで、個別的労使関係が、どのように分析・研究・評価されていたのかを、個別的労使関係に関する先行研究から見ていきます。
まず、先行研究レビューは、大正元年(1912年)の友愛会創立時の、次の綱領から始まります。
一、我等はお互いに親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんとすることを期す。
一、我等は公共の理想に従い、識見の開発、徳性の滋養、技術の進歩を図らんことを期す。
一、我等は協同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。
綱領の1つめは、今なお労働組合活動として続けられている共済活動による相互扶助の取り組みです。2つめは、今風の言葉で言えば「キャリア自律」の活動です。そして、3つめの地位改善こそ、日本の労働者のもっている価値判断の基本をなすものであり、その自覚は、個別的労使関係での分権的組合活動に関わるものです。
この3つめの綱領こそ、現在の労働組合法の第2条の条文に、今も残る「社会的地位の向上」につながるもので、日本の労働運動の創成期(明治・大正期)からの、労働者の遺訓である、と言えるでしょう。
戦後日本の労働組合が企業別組合となり、「工職身分格差撤廃」に取り組み、労働者による「生産管理闘争」を展開し得たのは、敗戦による猛烈なインフレーションと食料不足、生産サボタージュと民主主義が支配的価値となったためだけではなく、創成期以来の労働者の地位改善が、悲願であったからです。
友愛会創設時の綱領が、なぜこのような内容(地位改善が悲願)になったのかについては、嵯峨(2002)は、
と書き記していることから理解されるでしょう。
二村(1987)も、
と述べており、個別的労使関係の改善に、強い思いがあったことが分かります。
友愛会創設時の綱領(社会的地位の向上)が、個別的労使関係の改善に強い思いを込めていたことは、仁田(2021)において、
と述べていること。栗田(1994)においても、
と指摘していることからも、読み取れます。
このように、創成期の日本の労働組合運動が、個別的労使関係に重きを置いていたのに、どうして集団的労使関係に重点が置かれるようになったのでしょうか。
それは、戦後の日本の労働組合運動が、企業別組合の結成から始まったのですが、敗戦直後の経済的大混乱という時代背景もあり、1945年の「10月闘争」から1947年「2.1ゼネスト」に象徴されるように、経営のパートナーとしての道を歩むのではなく、労使を敵対させて階級闘争化していったことによって、個別的労使関係から集団的労使関係へと対抗軸を移し替えていくことになったことが大きな要因と言えます。
その後、産別会議が主導した、行き過ぎた政治闘争化した労働組合運動への反省が生まれるものの、1951年に総評は「ニワトリからアヒル」へと転身し、高野実路線が新たに敷き詰めた階級闘争としての職場闘争へと移ることで、活動の重点が個別的労使関係にもどったかに見えますが、集団的労使関係に対抗軸を置いたまま、受け継がれていきました。
1955年からの太田春闘の開始は、高野実路線の「家族ぐるみ・地域ぐるみ」の「職場闘争」路線への批判として生み出されたものでしたが、栗田(1979)が指摘するように、春闘は、企業内での労働組合の発言力が徹底的に抑制された1953~1955年の(職場)闘争敗北を前提に、競争企業労組間の連携を武器とする産業別統一闘争として組織され、企業内で労使が対立する局面を縮小して、産業の成果を労働者に配分する賃金相場の形成を目標にした運動として進められました。そのため、労働組合活動のウエイトを、より企業外の集団的労使関係における集権的組合活動に移行させることになりました。
春闘路線の問題点として、栗田(1979)は、「しかしその結果が労働組合を春闘時だけの組織とし、不況の深化とともにその領域を次第に狭めてきたのである。いま要求されていることは、労働組合活動が労働者のより日常的な領域に拡大していくことである」と指摘しました。
このことだけでも、春闘が機能不全となり、労使関係終焉論が叫ばれる今日において、その克服策は、個別的労使関係での分権的な組合活動を生み出していくことである、と栗田が示唆するものだ、と解釈できます。
栗田(1990)において、
としています。
栗田(2005)では、
としていることから、企業内での個別的労使関係での分権的組合活動に焦点を合わせていく必要性を示唆している、と読み解くことができるでしょう。
しかし、あまりにも先行研究レビューを先走りしすぎましたので、翻って、高野実路線下で展開した「職場闘争」は、個別的労使関係での分権的組合活動に関わるところがありますので、少し専門的になりますが、その経過を確認しておきたいと思います。
法政大学大原社会問題研究所(1999)は、高野実路線下での「職場闘争」の広がりは、経営者が労働運動の弱体化を利用して経営権を再確立し、合理化を一方的に進めようとしたことに対して、一般組合員が不満・反発を持ったことにより職場闘争が活性化したところが大きいこと。もう1つの要因として、職場組織の確立によって「幹部請負主義」を克服し、企業別組合を下から強化しようと試みたことで、「職場闘争」は、一般組合員の職場組織への参加を前提として、労働条件、昇格・昇進基準などを職場での交渉で規制して職制支配を弱めることをめざしていた、と紹介しています。
「職場闘争」の必要性は、高野実の失脚後も、1958年の総評第10回大会(太田薫総評議長・岩井章事務局長時代)に「組織綱領草案」として提起されました。しかし、草案の「職場闘争論」は、もはや現実の労働組合活動の実態とマッチするものではなく、2年間継続議論の名目で棚上げされて、草案はもはや議論の対象とされなくなり、「組織綱領草案」は草案のまま終わりました。
ものがたり戦後労働運動史刊行委員会(1998)にも、太田議長も草案内に記述されている、企業の末端の管理職を、組合員を支配する役割から企業経営者と対決する方向に向けていくことを意味する「あっち向け闘争」などの表現を危惧し、こうした表現が企業の経営権や命令権を組合が奪ってしまう方向をもっており、現実の日本では実行は不可能であると考えていた(p.196)、と記されています。
それでも、「職場闘争」の命脈はつながり、1964年の大会で「第2次組織方針」として採択されることになります。
労働者教育センター(1979)は、1960年以降、生産性向上運動の浸透、同盟会議 の結成などを背景に、組織分裂、第二組合づくりが執拗にすすめられた。このような状況をふまえ、総評は当時の労働組合の組織実態と闘争の限界を冷厳にうけとめ、実践課程における組織指導理念を整理する立場で(p.3)、この方針を採択したとしています。
ただし、第2次草案では、「職場闘争」という言葉は「職場活動」という呼び方にほぼ変えられていましたし、労働界における総評のリーダーシップは、もはや力を失っていました。。代わって、民間大企業を基盤として同盟が台頭し、1964年に国際金属労連日本協議会(IMF-JC)が結成されて、春闘のヘゲモニーは、太田春闘からJC春闘 に移っていき、「職場闘争」の命脈も、つきました。
このような経過をたどった「職場闘争」の顛末に、兵藤(1982)は、
との見解を示しています。
しかし、仁田(1988)は、
とし、新たな質を持った個別的労使関係での分権的組合活動が生まれていることを指摘し、次のように述べています。
個人レベルでの経営参加、すなわち、仕事のやりがいを高め、労働者の職務満足と勤労意欲の向上をめざすためには、個々の職務内容を改善するだけでなく、仕事の進め方そのもの、さらにはそれを規定する技術体系を改革する必要があるという考え方が組合員の支持を集めている。
その労働の改革は、職務拡大など個々の職務改善を図るにとどまらず、多様な技術を持つ作業者の集団に仕事上の決定(生産方法や作業の配分など)に関する大幅な裁量権をあたえ、権威主義的な現場管理にかえて自律的な作業集団による生産システムを採用する必要があるとする問題意識が広がりを見せている。
柔軟で変化に対応する適応力の高い作業組織への転換という生産問題の視角から、個人レベルでの経営参加の一層の深まりを見せている(pp.4-6)。
仁田(1988)の発見は、
というものであり、わが国における個人的職務中心型参加 の代表的形態である職場小集団活動に関しては、「強制」のモメントがないわけではないが、職場小集団活動がダイナミックに展開されているところでは、労働者の積極的な発言・関与が見出される。主に要員、配置、安全衛生など、仕事、ないし労働給付に関わる領域、あるいは経営方針・設備投資計画など、経営の戦略的決定に関わる領域などにおいて、経営の行動に実質的に影響する相当高い程度の発言権が労働組合によって行使されている。
職場集団がそうした活動をダイナミックに展開するためには、労働組合が仕事に関わる発言を、そうした活動をバックアップするような形で体系的に展開することが必要になる(pp.281-282)、というものです。
参考文献
栗田健(1979)「企業別組合の内部からの変革課題」『賃金と社会保障』旬報社1979年8月号
栗田健(1990)「日本的労使関係論をめぐって―高橋祐吉・河西宏祐・熊沢誠氏の近著を読んで」『歴史学研究』青木書店第610号
栗田健(1994)『日本の労働社会』東京大学出版会
栗田健(2005)「『日常的な労働組合』の研究(下)」『大原社会問題研究雑誌』No.558/
5月号
嵯峨一郎(2002)『日本型経営の擁護』石風社
西尾力(2023)『「我々は」から「私は」の時代へ―個別的労使関係での分権的組合活動が生み出す新たな労使関係』日本評論社
仁田道夫(1988)『日本の労働者参加』東京大学出版会
仁田道夫(2021)「労働運動の歴史」仁田道夫・中村圭介・野川忍編『労働組合の基礎―働く人の未来をつくる』日本評論社
二村一夫(1987)「日本労使関係の歴史的特質」社会政策学会年報第31集『日本の労使関係の特質』お茶の水書房
法政大学大原社会問題研究所(1999)『日本の労働組合100年』旬報社
ものがたり戦後労働運動史刊行委員会(1998)『ものがたり 戦後労働運動史Ⅴ―1955年体制の成立から安保・三池の前哨戦まで』教育文化協会
労働者教育センター(1979)『総評組織綱領と現代労働運動』労働教育センター