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籠の鳥より監獄よりも、寄宿ずまいはなお辛い~労働組合はこうして生まれた~

このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。


世は20年ぶりの新紙幣の発行にお祭り騒ぎさながらの様相を呈している。中でも「新10000円札」のデザインとなった渋沢栄一氏をめぐる話題が大きかったようだ。

氏の経歴は実に多彩だ。江戸時代末期に農民から武士に抜擢、明治時代には大蔵官僚となり、退官後に実業界に入る。そして、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所などをはじめとした多くの会社や経済団体を設立・経営に携わった。関わった企業は約500社 にもおよび、「日本資本主義の父」 とまで称されるようになった。

そんな渋沢栄一氏が、なぜ新紙幣のモデルに選ばれたのかは知る由もないが、いま私たちが当たり前に働き生活している社会、資本主義社会の誕生にかかわったということになれば、資本主義社会に欠かせない労働組合関係者として相応の関心を抱かざるを得ない。
それではその資本主義社会はいつ、どのようにして生まれたのか。そして労働組合も、いつ、どんな理由で生まれたのか。資本主義社会と労働組合は切っても切れない関係にあるのか、そんな疑問を抱きつつ、その歴史を改めて検証してみたいと思う。


今日の近代的な市民社会といわれる社会は、学校の社会科で習ったようにイギリスの「名誉革命」によって生まれる。1688年~1689年、イングランド王位をめぐってクーデターが起こり、時の王・ジェームス2世は1688年12月11日、亡命に走ったものの捕えられた。しかし、処刑して同情が集まるのを恐れた新権力者により、フランスへの亡命が認められた。このようにイングランドでの革命は無血で成し遂げられたために、無血革命、あるいは名誉革命といわれている。しかし、スコットランドやアイルランドでは無血ではなかったために、歴史学者の間では「無血革命」の呼称に反対の意見が多いともいわれる。

この名誉革命は市民革命ともいわれるが、市民革命とは、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代的市民社会を目指す革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想

【(理性による思考の普遍性(「普遍」はすべてのものに共通すること)と不変性(変化しないことであり、現状を維持すると表現することもできる)を主張する思想。その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光」あるいは「光で照らすこと」である。】

ウイキペディア

そうした考えに基づいて、人権、政治参加権、あるいは経済的自由を主張した「市民」が主体となって推し進めた革命と定義されている。代表的なものには、イギリス革命(清教徒革命・名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命などがあげられている。

したがって、「市民」には、封建・絶対主義から解放され、自立した自我をもつ個人という意味があり、同時に商人や資本家、消費者という性格を持っている。
そのために私的所有の絶対を原則とする資本主義社会こそが必要だったといわれている。


余談になるがロシア革命もこれに分類されることがあるが、プロレタリア革命とは、資本主義社会から社会主義、共産主義社会の実現を目指すものなので、市民革命とは性格を異にしている。王政から共和制に移行する1848年革命(フランスの2月革命、ドイツ・オーストリア・イタリア・イギリスの3月革命などの総称)、1871年のパリ・コミューンなどは一般的にプロレタリア革命に分類される。こうした革命の定義は、西ヨーロッパ世界の様式を前提としており、中国の「辛亥(しんがい)革命」や日本の「明治維新」などは、これらに分類しきれず、現在も議論の余地が残っているとされる。
また、ベルリンの壁に代表される共産党支配から脱した東欧革命は、市民革命と同等であると考えられている面もあるが、いまだ評価は定まっていないという。


さて話を本題に戻そう。 

封建制度から革命(イギリスの無血革命・名誉革命)によって近代市民社会が生まれるが、資本主義制度からなる市民社会は、三つの原則から成り立っている。一つは、「契約自由の原則」、二つは、「財産権の尊重」、三つに、「過失責任の原則(自己責任の原則)」である。

一つ目の「契約の自由」とは、契約関係は『契約する双方が独立して自由な合意に基づいて成り立つ』と考えるから、労働者が働いて賃金を得る使用者との契約も、双方が自由な意思で合意した契約として扱われることになる。

二つ目の「財産権の尊重」というのは「私的所有権の保障」と同義語で、個人の財産の保障、資本や設備(生産手段)の私有で成り立つのが資本主義経済だから、まさに資本主義経済の根幹になる考え方なのである。

三つ目の「過失責任の原則」は、人は故意、または重大な過失がなければ、その損害に対して一切責任を負う必要がないというというものである。

これらの原理・原則ともいうべき条件を持つ資本主義社会が誕生すると、世の中の状況は一変する。
日本より先に資本主義が誕生したヨーロッパの状況は目を覆うべきといえるかもしれない。

【大部分の人間は起きている間中、機械に縛られ、男も女も子供も、まことに恥辱的な条件のもとで1日16時間、週6日の労働を強いられていたのである。
彼らは耳をつんざく蒸気エンジンとガチャガチャという機械の騒音、換気もない埃だらけの空気の中で、満足に息もできない状態におかれた。監視者は、最大限の生産を上げるべく、労働者を駆り立てた。製品に傷をつけたり居眠りしたり、窓の外を見たりすると罰せられ、おまけに彼らは、安全装置もないシャフトやベルトや弾(はず)み車の事故の危険、また職業病や疫病の恐怖に絶えずさらされていた。事故はしょっちゅう起こり、不具者になったり死ぬ者も後をたたなかったのである。
しかし、これら工業化時代初期の犠牲者に対して、工場側はほとんど何の救助策も施せなかった。綿のようにくたくたに疲れて、労働者たちは窓もないあばら家へ帰っていく。7,8人で一つのベッドを使うということも珍しくはなかったし、そのあばら家の不潔さも恐るべきものであった。蓋もない溝に、ゴミや糞尿は垂れ流しにされ、家じゅうが悪臭フンプンとし、工場廃棄物は積りりに積もっていた。その中で病気が蔓延する。チフスやコレラが流行し、町で生まれた赤ん坊の二人に一人は、5歳を待たずに死んでいったのである。】

「エントロピーの法則 Ⅱ」J・リフキンより


そして日本も例外ではない。

【明治15年の調査によれば全国工場の52.5%は製糸工場で、全工場労働者の69%は女工、その約80%は製糸女工であったといいます。すなわちわが国の工場労働者の6割ないし7割は女工で、しかも圧倒的多数は製糸、紡績等における20歳前後の、心身共に未成年者であり、しかも14歳未満の少女が初めにはその1割を占めていたのでした。明治30年代のマッチ工場で軸並べに5,6歳の幼女をすら使用していたという事実はあまりに悲惨な話でありました。
こうした女工は維新前後を通じて、ずっと朝の四時頃までも働きづめに働き、食事は燕麦(えんばく=大麦を育てる際に一緒に生えてきた雑草が、世代をへるにつれて似たような性質を身につけてきたものと考えられている。約5000年前には作物の一つとして栽培されるようになり、やせた土壌でも育つことから、気候の厳しい地域に暮らす人々の生活を支えた)のわり飯でありました。寄宿舎は監禁同様で外出の自由なく手紙も開封される有様でありました。その部屋は天井は極めて低く、一人当たり畳一枚になるかならずかで、夜具など薄くてとうてい我慢できないくらい、しかも逃走を恐れて部屋は外部から鍵がかけられ、そのため火事の際にも逃げられずついに焼死した例さえあるのが実情でした。そして外国綿業との競争上、賃金は極めて安いものであり、女工に対しては単に女なるが故に男工に対して6割位の賃金しか支払われず、しかもその大部分は食費として差し引かれてしまうのでした。

当時の「女工小唄」なるものを紹介しましょう。
「うちが貧乏で12の時に、売られて来ましたこの会社、こんな会社に来るのじゃないが、知らぬ募集人にだまされて、工場地獄よ主任が鬼で、廻る運転火の車、会社づとめは監獄づとめ、金の鎖がないばかり、籠の鳥より監獄よりも、寄宿ずまいはなお辛い、ここを脱け出す翼がほしや、せめてむこうのおかまでも」
「こんな会社にいるよりも、度胸定めて大垣の、一番列車に乗りこんで、恋しき満州の果てまでも」
「今度給料が出たならば、門番だまして駅にいて、一番列車に乗り込んで、恋しき国の両親に、このこと話して共に泣く、何の因果でかせ掛け習うた。たまに残るは骨と皮」

しかもさらに悲惨なことには、「このこと話して」共に泣いてもらいたい彼女らの両親は、大部分喰うか喰わずかの貧農で、彼女らに実質上何をしてやれるわけではなく、却って彼女らによって送られてくる零細な金によって高い小作料をも払うことができたという事実なのであります。日本の農民の果てしない貧乏がすべての悲劇の因(もと)なのでした。】

「日本女性の生活史」樋口清之


働く労働者の悲劇的な環境、悲惨な日常生活の上に資本主義社会が成り立っていたのである。そんな社会の仕打ちに労働者や国民が立ち上がらないはずはない。こうして労働者による労働組合の結成、国民としての正義の主張と労働法制定への働きかけ、政治分野への進出など、今日の労働組合の原型が形作られていくのである。