見出し画像

ヒロポン・大麻・オーバードーズ

このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。


日大のスポーツ部における大麻騒動、市販の風邪薬などの大量服用によるオーバードーズ(薬を使う時の一回当たりの使用量が過剰であること、または薬物の過剰摂取に及ぶ行為)が問題になっている。新宿における若者のオーバードーズは、薬の種類や量、個人の体質や状態によって、さまざまな症状や危険を引き起こす可能性があるとされている。オーバードーズは、医師の指示に従わない自己判断で薬を服用することや、薬物乱用や依存によることが多いとされている。

幻覚や吐き気など、飲用した人にさまざまな被害を与える「大麻グミ」があげられている。しかも大麻グミの濫用者が若い人々であることが特に心配されているのだ。
ようやく最近になってオーバードーズが昔の覚醒剤と同じように、常習性や薬害による症例によってその危険性が指摘されるようになった。

そもそも覚醒剤(かくせいざい)の意味は読んで字のごとく「覚醒」、すなわち「目がさめること」、「迷いから覚めること」「自分の間違いに気づくこと」などのように、どちらかといえば、好印象を与える言葉である。ところがその言葉に「剤」がつき「覚醒剤」となると、「中枢神経を興奮させ一時的に眠(ねむ)けや疲労感を抑える薬」に変化してしまう。

その昔(終戦直後)、覚醒剤のヒロポンは「体力をつけ、倦怠感や眠気を取り除き、作業の効率を高める薬」として宣伝されていた。
そして広告も町中に普通に貼られ、次のような効能が書かれていた。「体や精神を酷使するとき、徹夜作業のとき、疲労しているとき、そして2日酔いや乗り物酔いの時にも効果がある」と。
そして、ヒロポンは日本の薬局どこでも買える普通の薬であった。今では信じられないが、信用のある大手製薬会社でも大々的に宣伝していたのである。

そして使用者が徐々に理性を失い退廃した生活を送り家庭を崩壊させる。薬代欲しさに暴力を振るい、犯罪を犯し、時に殺人にまで手を染めるようになってしまう。暗澹たる社会の到来が懸念されるようになって初めてその使用に警告が発せられるようになり、社会問題としてヒロポンの禁止が法制化されることになる。

ヒロポンにしろ、大麻にしろ、オーバーローズにしろ、初めの摂取の動機に悪意は見られない。

【大阪・道頓堀で、夜間に若者が集まる「グリ下」(グリコ看板下)。そこに通う中学3年の女子生徒(15)は昨年、半年付き合った相手に連絡を絶たれた。同じ頃、学校の成績を理由に父親にたたかれた。
 「自分なんて死んだほうがいい」。そう思いつつ、気晴らしを探した。SNS上の友人に「簡単だし捕まらない」と勧められたのが、オーバードーズだった。
 参考書代などとして親からもらったお金を1万円ほどため、薬局で錠剤とシロップのせき止め薬を買った。深夜にカラオケ店に1人で入り、錠剤30錠をシロップで一気に飲み込んだ。
 1時間後、フワッと浮いているような感覚に包まれた。2時間経つと、次は吐き気や頭痛に襲われた。気持ち悪さは1週間ぐらい続いた。
 その後も友人宅で大量の薬を飲んだ。床の上で目を覚ますと、半日が過ぎていた。帰りの電車内でも吐き気に襲われ、その日は体の震えが止まらなかった。「何やってんだ」。自分が嫌になり、薬を捨てた。「その瞬間は現実逃避にはなっても、なんにも残らない」】

「朝日新聞デジタル」23年12月28日」

さらに、それら薬害による救急車の搬送も増大中だ。

【総務省消防庁と厚生労働省が全国52の消防本部を通じて調査したところ、薬の過剰摂取が疑われる救急搬送は10~20代で増えている。2020年と22年を比べると、全世代では横ばいだったが、10代で約1・5倍の1494人、20代で約1・2倍の3295人に増えた。
 「薬の過剰摂取は意識障害や呼吸の抑制、誤嚥(ごえん)性肺炎などにつながる可能性がある。最悪の場合、死に至る」。西淀病院(大阪市西淀川区)の落合甲太・救急外来医長はそう警告する。対症療法に頼るしかなく、摂取後間もなくは胃洗浄や下剤の投与などで対応する。薬が体に吸収されていれば、経過を見ながら薬の影響が消えるのを待つという。】

同上

そして厄介(やっかい)なのは、薬物依存になる背景には「薬物無害論」があり、さらに「応援団」の存在さえみられ、加えて「利益を上げる人」の存在がある。

【4日に東京・小金井市で行われたイベントでHHCHが記載されたグミを食べた男女5人が病院に搬送されるなど、いわゆる「大麻グミ」による健康被害報告が相次いでいる。 各メディアによると、グミを製造販売する大阪府の会社「WWE」の松本大輔社長は、17日に取材陣に対して「愚策だと思う。規制すればするほど新しい成分が開発されるので、私としては反対」と発言。また記者から危険性の認識について問われると「半年前から自分たちも摂取しているが、今のところ人体への影響はない」と主張したという。】

同上

大麻グミの栽培や販売で莫大な利益をあげようとする松本社長はこう述懐する。

【「商品化前には耐性のあるスタッフが体感し、問題ないとして販売している。何事も摂取のしすぎは人体に影響が出るので、用法用量を守って摂取してほしい」とし、継続して販売する方針であることを示した。 安全性を強調する松本社長だが、都内を中心にグミを食べた人が相次いで搬送されるなど、社会問題化している。】

同上

現在日本で「覚醒剤取締法」で規制している薬物は明確にされているが、その一つであるメタンフェタミンといわれる化合物を合成したのは日本人である。

【薬学界の長老だった長井長義博士が、「麻黄」(まおう・注①参照)の有効成分で喘息や咳の薬として使われるエフェドリンを創製したとき、その誘導体の1つとして作られました。明治26年(1893)のことです。(中略)
化合物としては比較的古くから知られているんですが、この 効能としては催眠剤の反対で、眠気を去り、疲労感をなくし、気分を高揚させ、多弁になり、行動的な状態になります。眠気を去り疲労感をなくすといっても、一時的に無理ができるというだけで、その後は休養や睡眠が必要だし、しかも連続使用するとさまざまな障害が起きるため、医薬品としては特に重要ではありませんでした。抑鬱症(よくうつしょう)とか睡眠発作(ナルコレプシー)とかだけに用いられる特殊な薬だったんですね。
 ところが、1938年にドイツでメタンフェタミンが発売されます。ドイツ軍は長時間にわたる過度の軍務を容易にし、一方では士気が高まることから、兵士への供給を開始します。それを見た日本軍もさっそく導入を決め、製薬業者に生産させ、軍用に使ったのでした(1940年にメタンフェタミンの市販開始)。
 その頃は覚醒剤の問題点(中毒性や精神障害など)は知られておらず、普通に薬局で市販されていました。宣伝の惹句は「除倦覚醒」で、内服用に1mgの錠剤のみ販売されていました。当時の覚醒剤は4〜5mgもあれば十分に効果があったので、錠剤4〜5錠飲んで徹夜するというのはわりと当たり前の光景でした。
 軍隊でも軍需工場でも覚醒剤の使用が始まりました。よく特攻隊が自爆攻撃できたのは麻薬を服用していたからだといわれますが、これは事実でしょう。ただし、繰り返すように当時は普通の市販薬だったので、特に悪いことではなかったはずです。
 薬害についても、戦時中は命令的に適量を一時的に使っていただけなので、深刻な被害は出ませんでした。】

同上

覚醒剤をどのように撲滅するのか。その道のりは険しい。麻薬の道に入る動機は至極当たり前もことのように思える。「興味本位」、「友だちに進められて」などなど。しかしひとたび中毒になれば平常心は保てなくなる。人は誰でも人生に思い悩む時がある。その悩みから逃れようとする試みは多種多様だ。その中で何の努力もせず、あるいは相談できる人もいない、家庭・家族への不満があるなど、そうしたさまざまな理由によって麻薬への道に転がり落ちるのだ。

その前に何ができるのか。一つの考え方として次の言葉を胸に刻んでおきたい。

【薬物依存者の回復施設「大阪ダルク」(注・②)の倉田めばさん(注・③)は昨年12月、オーバードーズの当事者らが語り合う場を設けた。自身も過剰摂取の経験があり、「特に思春期は家庭や学校で人間関係などの悩みを抱えやすく、根本にある問題は昔から変わらない。過剰摂取してしまう人たちの存在を否定せず、受け入れる場が社会に増えることが解決につながる」と話す。】

同上

 

注① ・麻黄湯(まおうとう):漢方方剤の一種。出典の傷寒論(しょうかんろん)は、後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した伝統中国医学の古典。内容は伝染病の病気に対する治療法が中心となっている。

注② ・ダルク(DARC):Drug(薬物)のD、Addiction(嗜癖・病的依存)のA、Rehabilitation(回復)のR、Center(施設)のCを組み合わせた造語。大阪DARCは、違法薬物(覚醒剤・大麻など)に限らず向精神薬(精神安定剤・睡眠薬など、市販薬(風邪薬・鎮痛剤など)、アルコール等の薬物から解放されるための薬物依存症回復支援施設。薬物を止め続けたい仲間を手助けすることを目的に、「プログラムに従って徹底的にやれば必ず回復できる」という希望のメッセージを伝える活動を行っている。

注③・倉田めば氏:長い間薬物依存に苦しみ、回復した経験を持つ。1993年、一人で大阪ダルクを立ち上げたが、ダルクで回復した人がスタッフとして活動を支える側に回るなど少しずつ人が増えてきた。2006年にNPO法人格を取得、現在は1つの通所施設と2つの入所施設を運営している。