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労働者の誕生と労使関係を考える
このコラムは、元連合副会長・元JCM議長(現顧問)・元電機連合委員長(現名誉顧問)である鈴木勝利顧問が、今の労働組合、組合役員、組合員に対して本当に伝えたいことを書き綴るものです。
「ろうし・かんけい」を表す漢字には「労資関係」と「労使関係」の二種類がある。
「労資関係」は労働者(労働組合)と資本家の関係を表すのに対し、「労使関係」は労働者(労働組合)と使用者の関係を表す。
前者は、資本主義社会の労働者は資本家の専制と支配によって搾取されている階級とされ、対立関係が中心とされる。
一方、後者の「労使関係」は、具体的な企業活動における労働者と使用者の関係を指すから、当然のように対立もあれば協調も存在する。
今日の社会における労使関係を考える際に大事なことは、一方の当事者である労働者がどのように生まれ、労働組合がどのように誕生したかである。
前号で触れたように、労働者はイギリスにおける産業革命によって誕生するが、その処遇条件や労働環境は、筆舌に尽くし難い過酷なものであった。そして労働組合の誕生によって、労働環境の改善が進んでいくのである。労働組合の誕生は、同時に使用者との関係の在り方に大きな変化をもたらしていく。労使関係が重要な要素になっていくのである。
そもそも労使関係とは、労働者が存在するから成立する関係である。この場合、労働者が存在する理由が大きくかかわってくる。労働者というのは何もない中で生まれるものではない。会社が資本、建物、機械、あるいは材料など(生産手段という)をそろえ、生産活動をして(製造業が生産するモノだけでなく、ソフトやサービスも生産すると考える)初めて発生する。
だから生産活動が行なわれなければ労働者は存在しないのだ。このことだけをとらえると、「会社あっての労働者」という理屈になり、会社の存続のために、労働者は何時の場合も我慢や犠牲を厭(いと)うべきではないということになる。この理屈からは労使対等という概念は生まれてこない。何が欠けているかといえば、機械や設備などの生産手段と違って、労働者が人間であるという点である。労働者が機械や設備と同じなら、使い捨ても過酷な労働条件でも問題はない。
しかし、人間は当然のように毎日生きる必要があり、同時に「人間の尊厳」というものがある。労働の対価としての賃金を得、それを生活の糧として生きていく。生活の糧を得られなければ生きていくことは出来ない。同時に、事業運営には従業員は欠かせない存在であるから、「従業員あっての会社」という側面を併せ持つ。人材の重要性が叫ばれる理由でもある。
したがって、近代社会においては、企業が生産活動しか考えずに、労働者個人の尊厳さえ保てないような雇用や労働条件にすることは許されないことを銘記しておかなければならない。このように、企業は「人を雇うことによる義務」を負い、「事業運営をすることによる義務」(たとえばCSRや環境コストなど)を負う。
また、人間としての尊厳をもって生活するために最低限どのくらいの所得が必要かが問われる。企業がどこまでの賃金を払えるかは二義的なことになり、労働者の生活を担保する最低限の賃金を払うことによって、場合によっては企業が倒産することになっても残念ながら止むを得ないのである。だからといって労働組合が、最低賃金はただ「高ければいい」と主張するのは間違いといわれる一方、2021年にはアメリカの経済学者・デビット・カード氏が、「最低賃金の上昇は必ずしも雇用の減少にはつながらない」という研究を発表してノーベル経済学賞を受賞した。現にアメリカのいくつかの州では、ここ数年(2021年現在)で時給15ドル(1700円)まで上げている。
このように人間として最低限の尊厳を保てる水準こそが最低賃金であり、組合が最も力を注ぐべき処遇条件なのだ。
一方、前述したように、企業が生産活動をしなければ雇用は発生しないことから「企業なくして雇用なし」の論理がある。
相反するこの二つの論理を両立させるのは至難のように見えるが、狭い隘路を辿るように、双方の理論をギリギリのところで両立させるのが労使関係の真髄なのである。
労働組合が企業に雇用確保を求めたところで、生産活動ができなければ雇用確保はおぼつかない。しかし一方で、経営者は企業活動が難しいからといって、簡単に労働条件を切り下げる。あるいは、解雇して労働者の尊厳を否定することは戒めなければならない。この難しい二つの論理の妥協点を見出すには、労使双方の信頼関係によって成り立つ、健全で安定した労使関係が必要になる。
安定した労使関係がなくしてギリギリの隘路を見出すことはできない。ところが、この健全で安定した労使関係を作り上げるのは簡単なことではない。労使双方のトップの信頼関係はもとより、職場における上長と部下との信頼関係、組合役員と組合員の信頼関係、この三つの信頼関係がないと、本当の意味で安定した労使関係は成立しない。「三位一体の労使関係」というのはこうした相互の関係をさしている。
こうしてみれば、「会社あっての労働者」「労使は車の両輪」「労使協調」などといわれる両者の関係は、いずれも一面のみの見方で、本当はもっと複雑な関係であることがよく分かる。ただ「労使は鏡」といわれるのは真実で、労使の紛争が起こったケースを分析すると、労使関係そのものを理解しない使用者が起こすケース、労働組合が「雇用は生産活動から派生する側面」を無視することで起こるケース、あるいは「労使の行き違い」から起こるケースなどさまざまである。
労使が一旦紛争を起こすと、互いに自らを正しいと主張し相手を非難するから、紛争の長期化は労使リーダーの個人間の相互不信を招いていく。妥協し解決しても、相手を非難した紛争時の相互不信は従業員・組合員の心の中にも醸成されている。解決後の生産活動にも支障が出ることは明らかである。安定した労使関係が企業存続にとっても重要になる理由である。
安定した労使関係を構築するためには、「どっちもどっち論」を脱却し、「ニワトリが先か、卵が先か」論を克服した上で、会社がどうあれ、組合のリーダーとして研鑽を重ね、三位一体の労使関係を構築する一方の旗頭として、組合員からも、職場からも信頼されるリーダーになることで、使用者よりも「一歩先んじる」リーダー像が確立される。そうしてこそ、会社の職制よりも組合のリーダーの方が、より人間として崇高であり、人としての存在意義を持つという誇りを持てるのである。
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